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日本の陸軍軍人、陸軍中将 ウィキペディアから
飯田 祥二郎(いいだ しょうじろう、1888年〈明治21年〉8月8日[1][2] - 1980年〈昭和55年〉1月23日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
山口県出身[1]。飯田俊助陸軍中将男爵の二男として生まれる[1]。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊付となる[1][2][3]。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した[1][2][4]。
臨時軍事調査委員、陸軍省軍務局課員(軍事課)、欧州出張、陸軍歩兵学校教官、歩兵第44連隊大隊長、歩兵学校教官、第4師団参謀、歩兵学校教官、近衛歩兵第4連隊長、第4師団参謀長を経て、1937年(昭和12年)3月、陸軍少将に進級[1][4]。
兵務局長、第1軍参謀長、台湾混成旅団長などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍中将に昇進[1][2][4]。近衛師団長、第25軍司令官を経て、太平洋戦争初期には第15軍司令官となり、ビルマ攻略を指揮した[1][2][4]。また、その前にタイ王国への平和進駐という任務を成功させた[2](ごく少数のタイ軍人は抵抗した。詳しくは、日泰攻守同盟条約を参照)。ビルマ攻略後、バー・モウを釈放し、彼との協調を通じてビルマ独立への下地を築いた[要出典]。
防衛総司令部付、中部軍司令官を経て、1944年(昭和19年)12月に予備役となるが、戦争末期に召集を受け、1945年(昭和20年)7月、関東軍隷下の第30軍司令官となり、ソ連軍と交戦、捕虜となる[1][4]。終戦後5年間シベリア抑留となり、1950年(昭和25年)4月に復員した[1][2][4]。
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