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隆寛(りゅうかん、久安4年(1148年)- 安貞元年12月13日(1228年1月21日))は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての浄土宗の僧。父は少納言藤原資隆。字は皆空無我・道空無我。浄土宗の一派長楽寺義の祖。多念義を説く中心人物。
幼い頃に比叡山に登って延暦寺に入り、伯父の皇円に師事して天台教学を学んだ。また、皇円の法兄範源にも師事して、椙生流の相伝を受けた。さらには、天台座主慈円にも師事した。慈円との交渉は、和歌集『拾玉集』にもみられ、隆寛の実子聖増が慈円の弟子になったことも『尊卑分脈』では伝えている。元久2年(1205年)、権律師に任ぜられた。法然への入門時期は不明だが、元久元年(1204年)3月には法然から『選択本願念仏集』を授けられている。しかし、元久元年の『七箇条起請文』では署名をしていないなど、この時期は天台僧としての立場を鮮明にしている。
平生の念仏を重んじ、毎日数万遍の念仏を終生続けることによって、臨終にその業を成就し極楽に往生することができると説く多念義を主張し、長楽寺義の一派を形成した。とはいえ、自著である『一念多念分別事』では、一念と多念が言い争ってはならないと諍いを戒めている。
嘉禄の法難では専修念仏を広めた中心人物として、嘉禄3年(1227年)に陸奥国配流を言い渡された。しかし、護送に当たった毛利季光(西阿)が帰依したことから、弟子の実成房が代わりに会津に赴き、隆寛自身は季光の領地である相模国飯山(現在の神奈川県厚木市)に止まり、同年この地で没した。
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