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阿野家8代 ウィキペディアから
阿野 実為(あの さねため)は、南北朝時代の公卿。権大納言・阿野季継の子[2]。官位は従一位・内大臣(南朝)。祖父・阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)が後醍醐天皇の寵妃であった関係から、阿野家は代々南朝方公卿として活躍した。
具体的な官歴は不明だが、正平6年/観応2年(1351年)頃には右近衛少将、正平13年/延文3年(1358年)5月には「蔵人頭左中弁兼右近衛権中将」[3]であるから、間もなく参議として公卿に列したのであろう。正平20年/貞治4年(1365年)には権中納言、天授元年/永和元年(1375年)には権大納言として見えるが、天授3年/永和3年(1377年)7月以前に大納言に転じ、弘和元年/永徳元年(1381年)には前大納言である。
その後、後亀山天皇の信任を得て内大臣に昇り、元中6年/康応元年(1389年)6月には既に散位であった[4]。元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一に際しては、吉田宗房と共に対幕府交渉に臨み、閏10月に天皇に供奉して吉野から入洛した。合一後は落飾して匡円と号し、嵯峨大覚寺に入った後亀山上皇(法皇)に近仕しているが、応永5年(1398年)から同7年(1400年)の間に薨去したとみられる。
南朝歌壇においては、正平8年(1353年)の『内裏千首』の他、『内裏三百六十首歌』・『五百番歌合』などに詠進し、また、嘉喜門院の要請を受けてその家集(『嘉喜門院集』[5])を清書した。『新葉和歌集』には11首が入集する。
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