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闘鶏 御田(つげ の みた、生没年不詳)とは、古墳時代の人物で、木工(こだくみ)。
「闘鶏」(つげ)は大和国山辺郡の地名で、奈良県旧都祁村、現奈良市に当たる。
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇12年10月(推定468年)、木工の御田は勅命で始めて楼閣(たかどの)を建造した。
是(ここ)に、御田、楼(たかどの)に登りて、四面(よも)に疾走(はし)ること、飛び行くが若(ごと)きこと有り
楼の上を仰(あふ)ぎて観(み)て、彼(そ)の疾(と)く行(ゆ)くことを怪(あやし)びて、庭(には)に顚仆(たふ)れて、擎(ささ)ぐる所の饌(みけつもの)を覆(こぼ)しつ。 (訳:楼(たかどの)の上を仰ぎ見て、その速くすすむのを不思議に思って庭に顚倒して、捧げていた供え物をひっくりかえしてしまった)
これを見た天皇は、御田が采女を犯したものと早合点して殺そうと思い、物部(刑吏)に渡した。この様子を見ていた秦酒公は琴で弾き語りをして、歌った。
神風(かむかぜ)の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝(さかえ)を 五百(いほ)経(ふ)る析(か)きて 其(し)が尽くるまでに 大君(おほきみ)に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠(たくみ)はや あたら工匠(たくみ)はや (伊勢の国の、伊勢の野に、生い栄えた木の枝を、たくさん打ち析いて、それが尽きるまでも、大君にかたくお仕えしようと、自分の命もどうか長くあれと言っていた工匠は、なんと惜しいことよ)宇治谷孟:訳
天皇は「琴の声を悟りたまひて、其の罪を赦(ゆる)したまふ。」[1]
『日本書紀』巻第十四には「一本(あるふみ)に猪名部御田(いなべ の みた)と云ふは蓋(けだ)し誤(あやまり)なり」という註がつけられており、飯田武郷の『日本書紀通解』には「次なる猪名部真根を混へて伝へしなるべし」とある[2]。このことについて、「猪名部」とは木工を専業とした品部であり、彼が「猪名部御田」と呼ばれていたとしても不思議ではないと加藤謙吉は述べている。続けて、物語の中に「伊勢の采女」が登場するところから、摂津国河辺郡から豊島郡(てしまぐん)にかけての猪名県(いなのあがた)、および伊勢国員弁郡などを拠点とした百済系列の猪名部氏ではないか、としており、秦氏と宮殿造営事業とのかかわりの中で見て行く必要があるのではないか、という問題提起をしている。
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