長谷川重成

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将 ウィキペディアから

長谷川 重成 (はせがわ しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

概要 凡例長谷川 重成, 時代 ...
 
長谷川 重成
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 慶長8年6月18日1603年7月26日
別名 甚兵衛(通称
戒名 守清
墓所 東京都港区愛宕青松寺
主君 斎藤龍興織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康
氏族 長谷川氏
父母 父:長谷川重矩
兄弟 重則重成
重次、娘(長谷川重勝妻)[1]
テンプレートを表示
閉じる

略歴

長谷川重矩(越中守)の次男として生まれる。はじめは斎藤龍興に仕えていたが、後に織田信長に仕えた。天正3年(1575年6月11日、旧領の美濃長森の二百貫文の地が兼松正吉に与えられているが、没収されたのか、移封なのかは明らかになっていない[2]。後に羽柴秀吉の家臣となり、1,500石を与えられ黄母衣衆に列した[3][4]

その後、九州征伐に従軍、文禄元年(1592年)の朝鮮の役では肥前名護屋城に駐屯し、本丸の警備にあたった。慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康に従軍、関ヶ原の戦いでは主力戦に参加し、戦後は徳川家に仕えた[3][4]

慶長8年(1603年)6月18日、死去[3]

脚注

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.