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連省自治(れんしょうじち、繁体字:聯省自治 簡体字:联省自治)とは、中華民国初期に北京政府の政治家や地方軍閥実力者が提唱した政治改革案。
1912年1月1日、孫文は臨時大総統宣言で、連省自治について、「国家の幅が広く、各省の風土がある。これまで清朝は、中央集権法の行使を強行し、憲法を蔑ろにした。今後各省は統一され、相互自治が行われ、行政は中央政府と省との調整に当たる。これは既に大綱の条文に掲げており、これが内治の統一である。」と主張した。
1919年、梁啓超が著書の「解放と改造」で「連省自治」を初めて提起した。彼は「1.旧態依然の議会政治を、中国には望ましくないと確信しているため、国民が法的に自治権を得なければならない。2.国家組織を全地方を基礎として、対外維持統一の必要な時点まで、中央集権を行う。3.地方自治を確信し、自動的に各省および各県各市の主張に基づき、法律制定を定め、国家はこれを承認しなければならない。」と主張を行った。[1]
連省自治運動の活動家は熊希齢で、湖南都督譚延闓は、この学説に初めて反応し、熊希齢と深い関係を持った。1920年7月22日、譚延闓は「湖南省」、「民族自治」を打ち出し、「民政順応」として民政を「採民選省長制、以維湘局」を実施し、浙江省の盧永祥・陳炯明などから反応があった。章炳麟は10月に長沙に招待され、譚延闓の自治を督励するために直接策動を行った。譚延闓が11月2日に連省自治を提案し、「一省自治」より進歩した。章炳麟は11月9日、北京の「益世報」に「連省自治虚置政府議」を発表し、支持を表明した[2]。1922年1月に「湖南省憲法」が発表されると、四川・貴州・貴州・広東・広西・浙江・奉天などの地方軍閥の反響を受けた。1922年9月、胡適も「省自治に基づいた連邦統一国家」を主張し、張東蘇、丁世澤、潘力山などが連邦制を支持した。
孫文は、連省自治が民主主義を推進できないとして「勢力均衡制度」「県単位の地方自治」を主張して連省自治に反対しており、連邦制は逆効果だと判断した[3]。1922年夏、孫文は広東省韶関に北伐の拠点を築き、連合軍を組織して江西を攻撃、中国の行動を統一しようとした。広東省の陳炯明は「暫緩軍事」「先立省憲」を掲げて反発し、激しい衝突が起きた。1922年6月16日、陳炯明は孫文が広州に戻った隙に、広州の観音山にある総統府を砲撃し、六・一六事変と呼ばれた。孫文は蔣介石や陳策などの護衛の下で永豊に乗って広州を離れ、上海に撤退した。1926年、蔣介石が北伐を発動して湖南に進出して中国統一したが、連省自治の主張は下火となった。
21世紀に入ってからの中華連邦主義の登場は、連省自治の思想に端を発している。
1920年、北京で二つの連合組織、「各省区自治連合会」と「自治運動同志会」が出現した。天津市では、「五省一区自治運動連合事務所」が成立し、上海では、「旅沪各省自治連合会」が成立した。1921年に湖南省が「湖南省憲法草案」を出して以来、浙江・雲南・四川・広東では省憲が制定された 湖北・広西・貴州・陝西省、山西省、河西省、江西省、江蘇省なども、制憲自治を積極的に推進した。章炳麟はこの連邦主義運動を「連省自治」と呼んだ。
譚延闓が湖南省を去った後も、趙恒惕が湘軍総司令官を務め、「連治」政策を推進している。1920年12月下旬、趙恒惕は「省自治法」を発表し、四川・陝西・雲南・浙江などを軍閥統治から復旧させた。「湖南省憲法」は1921年に公布、1922年1月に施行され、省長を趙恒惕、省務院長を李剣農が務め、湖南省は初の自治省となった。趙恒惕は1922年9月、湖南省初の民選省長に当選した。
中国の湖南省の左派の人々が推進し、毛沢東・彭璜・張文亮を頂点にしている。1920年代、毛沢東は「由省建国」という分離主義理念を発表し、「湖南共和国」の建国と、中国各省が独立することを主張した[5]。「最良の方法は、中国全土での統治ではなく、各省を単純に分割し、各省の地方で統治を行う『各省人民自决主義』を実行することだ。22省と3特区の合計27ヵ所の地方に分けられるのが望ましい。」「由省建国」の主張が近代分離主義思想の急先鋒となったことは、「連省自治」の理想とは全く異なる。「連省自治」は、各省が自ら改革して新しい中国を形成することを望んでいる。「由省建国」は省政府によって採択され、中国の存在の必要性を完全に否定する「湖南共和国」の設立が提唱されている。こうした左派の主張は、ロシアの十月革命の成功の影響を受け、「大国は世界統一の必然的な過程に達している。」とし、「湖南共和国の建国は、世界統一の手段である。」と考えた。そのため湖南省とその他の各省は『中華民国』の版図からすべて分離独立しなければならないと主張した。独立建国の目的を達成するために、彼らは湖南人の独立した民族性を作り出すことで、自らの建国にふさわしい理論形成を目論んだ。
毛沢東は1920年10月に大公報で、「私の主張する『湖南国』を支持する人は、『湖南省の省』を『国』に変える必要はない。 『半自治』ではなく、『全自治』を得よう。」と主張した。
北伐以前から、既に孫文は「連省自治運動」に対して強く批判的であった。孫文は「民権主義第四講」で、「中国分断を図る軍閥勢力は野心家であり、各省の地方を切り取って勢力下としている。雲南省の唐継尭、湖南省の趙恒惕、広西省の陸栄廷、広東省の陳炯明、このような連合省は、軍閥の連省であり、人民自治の連省ではない。これは中国でなく、権力者にとって有益であり、分別して考える必要がある。」と主張している。
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