近藤 謙三郎(こんどう けんざぶろう、1897年 - 1975年)は、日本の都市計画家。道路技術者。高知県生まれ。
高知県安芸町(現・安芸市)で生まれる。1921年、東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市道路局に入り、銀座通りの改修工事に従事し、その舗装に日本初の木煉瓦を使う。
その後帝都復興院勤務[注 1]を経て、内務省都市計画東京地方委員会技師となる。西新宿、新宿西口の専売公社淀橋工場跡地移転後の都市計画において、超過収用型の都市計画事業を成功させる。[注 2]
1933年、満州国民政部の初代都市計画課長(民政部都邑科長)に転ずる。[注 3] 1939年、満州国政府直轄の大東港建設局に副局長として転じ、鴨緑江河口港の大東港と人口100万の工業都市安東の建設責任者となる。1941年には、建設局の初代局長となる。[注 4]
1946年に引揚後、全国道路利用者会議事務局長、日本道路協会常務理事を長くつとめる。そのほか、都心のスカイウェイ構想を提案し、また浜松への遷都論を展開した。1951年からは首都建設委員会事務局長をつとめ、高速道のノンクロスロード案を提示。1953年高速道路規格調査委員会委員を歴任する。1967年からは東急道路株式会社代表取締役社長に就任。[注 5]
道路の宣伝普及にあたるとともに、戦後間もなく首都圏の交通問題、とくに地下鉄と道路のいずれに重点を置いて開発すべきかの問題が起こったとき、高速道路論を主張するとともに、東海道弾丸道路の提案など、高速道路の建設構想を示す。
道路協会事務局長時代、アメリカの例にならってガソリン税の道路整備財源を陳情し、議員立法制定と道路整備5箇年計画策定に導く。[注 6]
なお、杉並区に現存した自邸「近藤邸」は宮崎駿著書「トトロの住む家」で紹介され、2009年に一般公開される予定であったが、火災で焼失した。その後宮崎駿がスケッチデザインを製作、それをもとに区立公園「Aさんの庭」が開園。
- 『一里塚 道路・交通の論文集』(1964年)
- 『道路の近代化と国民生活の向上-東急ターンパイクの社会的意義』(1955年)
- 『新首都建設の提唱』 公共建築 5巻3号 1962年12月
(論文)
- 『高層建築物後退規定の提唱』(都市計画叢書第9号、都市研究会)
- 『交通事故死考 悪路追放、その外に交通安全の決め手はない』(道路, 1968年3月号)
- 『新道路5ヵ年計画の効果と分析 さらに今後に期待する道路財政』(道路 (315), 27-30, 1967-05月号)
- 『有料道路経営のプール制は是か非か』(道路, 1965-03月号)
- 『道路財政考』(道路, 1964-01月号)
- 『道路整備のビジョンを高めよ』(道路, 1963-05月号)
- 『長期道路計画の規模』(道路, 1962-05月号)
- 『首都交通の行方』(道路, 1961-03月~7月号)
- 『都市交通問題に都心計画への新提案-「南阿連邦都市計画並びにトラフィック・エンジニアリングコンサルタント」』(バックハウス W. を翻訳、新都市 1959-07月号)
- 『道路投資効率論』(道路、1956-04、5月号)
- 『カラカス"Autopisua",モンブラン道路トンネル』(道路、1955-09月号)
- 『高速道路の世界情勢』(道路, 1954-02月号)
- 『高速道路規格調査委員会報告』(都市計画, 1953-03月号)
- 『ガソリン目的税と明日』(道路, 1953-03月号)
- 『弾丸道路とその採算』(道路, 1953-03月号)
- 『高速道路規格調査委員会報告』(都市計画, 1953-01月号)
- 『ガソリン狂躁曲-目的税と道路史の金字塔』(建設月報, 1953-02月号)
- 『地下鉄対高速道路の問題-清水氏の誤解をとく』(土木学会誌, 1951-03月号)
- 『ガソリン目的税について-特に財務当局に訴う』(建設月報 , 1951-09月号)
- 『高速道路の建設を急げ』(土木学会誌, 1950-11月号)
- 『道路交通能力論-都市交通の行詰りと其の対策-』(道路, 1950-07月号)
- 『道路交通能力論-都市交通の行詰りと其の対策-』(道路, 1950-06、7月号)
- 『道路改良の根本策-道路関係者の日記-』(道路, 1950-03月号)
- 『道路計画と用地の保有-道路法改正に際して』(道路, 1949-04月号)
- 『新しい都市の構成』(新都市, 1949-06~9月号)
注釈
帝都復興事業の末期に焼失区域外の道路や駅前広場の計画を担当するが、越澤(1987)によると、麹町馬場先に日本初のロータリー交差点が出来たが、これは近藤の提案によっているという。このとき近藤の真意は、ロータリーによって交通を解決するのではなく、平面交差の交通容量の限界を測定し、立体交差の立案をするための準備であった(自著『一里塚』1964年)。後年、高速道路の提案をする近藤の構想の原型がこのときすでに生まれているという 新宿駅西口の整備計画(駅前広場・道路・建築敷地造成)を立案(1932年8月成案、1933年3月市会議決)。これは戦後の新宿副都心建設計画の原型となった。越澤(1987)。
越澤(1987)によると、民政部では法制度の整備(都邑計画法、都邑計画標準の起草)と各地の都市計画の立案と事業化を推進したが、満州国では日本内地とは異なり、政府の都市計画主管課長のポストは技術官が就き、大いに仕事をやれる場が提供されていたという。また都邑計画法で「緑地区」を制度化。これは今日の市街化調整区域に相当するものであり、事業執行には土地経営(用地の全面買収、事業資金は造成地の売却収入による)を行うなど、先進的なやり方を導入していたという。 1939年に満州国は政府直轄で鴨緑江口に人口150万の臨時工業都市の建設を着手し、近藤はその責任者となった。大東港では敗戦までに高速道路が実際に供用している。部下の一人横山光雄によると、関東軍にも安易に妥協せぬ硬骨漢で、優秀なタウンプランナーであったという。越澤(1987)。 越澤(1987)によると、戦後いち早く高速道路の必要性を主張し(東海道弾丸道路の提案、首都高速道路の企業免許申請)、東急ターンパイク事業の顧問となり、高速道路の思想の源流のひとつを作ったという。
また、ゴルフが大変上手だったという。特別企画・建設省創立50周年記念「座談会~街路事業50年のあゆみ」『都市と交通』1998.No46
出典
『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- 旧交会会報15号(昭和52年2月)
- 金関義則(1968)「マンモス国土開発の展開第5回高速道路時代への歩み」(自然23巻11号、昭和43年11月)
- 越澤明(1987)「都市計画 Who was Who 近藤謙三郎」(都市計画144号、昭和62年3月)