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『越絶書』(えつぜつしょ)は、後漢初期に書かれた春秋戦国時代の呉と越に関する書物。現行本は15巻。
同じく呉と越を扱った後漢の書物に『呉越春秋』があり、内容も多く重なるが、成書年代は『越絶書』の方が早く、『呉越春秋』の記事の中には『越絶書』を元にした箇所が多くあるという[1]。
『隋書』経籍志では著者を子貢とする[2]。『越絶書』の外伝本事篇は作者を「呉越の賢者」とのみいい、子貢や伍子胥を作者とする説もあることを述べるが、最終篇に謎めいた文章で実際の著者名を明かしている。明の楊慎によればこの文章は会稽の袁康と呉平の撰述であることを意味し、『論衡』按書篇で王充当時の文雅の英雄とする袁文術・呉君高と同一人物かとする。また同書にいう呉君高『越紐録』が『越絶書』と同一の書物かという[3][4]。『四庫全書総目提要』もこの説を採用しているが[5]、余嘉錫『四庫提要弁証』によればそうではなく、戦国時代以来の伝承を後漢になってまとめたものとする(陳振孫『直斎書録解題』も同様の説を述べる)。内容が雑多であることから、佐藤武敏は余嘉錫の説に賛成する[6]。
外伝記呉地伝の終わりに「漢が秦をあわせてから今まで242年、勾践が瑯琊に遷都してから建武28年まで567年」とあり、この年数は誤っているものの、成立年代が建武28年(西暦52年)前後であることがわかる。
現行の『越絶書』は15巻19篇からなる。内経・内伝・外伝・外伝記の区別をしているが、内容は多様である。『崇文総目』によると古くは内紀8篇・外伝17篇の25篇があったという[7]。
呉内伝第四の勾践の命令(維甲令)に「人鎩」「須慮」など、いくつかの越語を説明した箇所がある。
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