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赤井 直義(あかい なおよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。荻野直正の子。通称は悪右衛門。
天正6年(1578年)に父・直正が死去し、長子である悪七郎直信がその跡を継いだ[3][注釈 1]。天正7年(1579年)、黒井城は明智光秀に攻められて落城し、当時9歳だった直義は城から逃れた(黒井城の戦い)[2][6]。その後、荻野金左衛門(または金右衛門)に名を改め、隠棲している[1][2]。
後に織田秀信の旗本となって、朝鮮出兵に従った[2]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、西軍の小野木縫殿佐に牢人分として従い、丹後国田辺城攻めに加わった(田辺城の戦い)[2]。その後、有馬豊氏に一時仕えるも退去[2]。慶長15年(1610年)[7]、山口直友の仲介で藤堂高虎に仕えて1,000石を与えられ、先祖の名に戻すよう命じられ、赤井悪右衛門へと改名した[2][7]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では鉄砲組20人を引き連れて、渡辺勘兵衛とともに先手を務め、翌慶長20年(1615年)の夏の陣では母衣役を命じられた[2]。
承応2年(1653年)、死去[注釈 2]。子の直綱(弥平次、のち悪右衛門[8])がその跡目を継ぎ、1,000石の知行も引き継いだ[2][8]。
2010年(平成22年)、赤井氏が居住した赤井家住宅が国の登録有形文化財に登録され[9][10]、2011年(平成23年)、直義の子孫から伊賀市へと寄贈された[11]。
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