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賀来の騒動(かくのそうどう)とは、享禄3年(1530年)に豊後国の大友氏の元で起こった騒動である。
この時代、豊後大神姓の賀来本家の当主は賀来左衛門大夫であった。大友氏に仕え、その名の一字をもらっている。大友の家臣に三派があった。大友氏の一族を御紋衆と称し、大友氏とともに鎌倉より来た者の子孫を下り衆と唱え、その前より土着していた諸士を国衆と呼んでいた。
国衆と下り衆とは、氏姓の上下を巡ってたびたび合戦に及んでいた。享禄3年(1530年)春に不慮の出来事が発生した。下り衆の清田越後守鑑祐が国衆の本庄但馬守、中村左衛門佐などの国衆を攻め、本庄、中村は自刃した。清田七郎左衛門越後守弟も戦没した。
さらに翌日、越後守と清田遠江守は兵1500騎をもって賀来館の賀来左衛門大輔を攻撃した。賀来大輔は、松箇尾城(阿南郷大津留村)の主である大津留常陸介(常陸守)鑑康と、鳥箇鼻塞(同橋爪村)の主の橋爪左衛門大夫鑑種(橋爪丹波守治季)の援軍と共に清田勢を挟撃し、反撃したが、賀来は、清田勢の加奈田兵部の弓矢の傷がもとで死去し、大津留氏は豊前に逃れた。
大友義鑑はこの騒動を聞いたが、橋爪はお咎めがなく[注釈 1]、大津留も後年、謝罪して本領を安堵された。これが「賀来の騒動」である。氏姓の争いともいわれている。
江戸中期の1769年に中島魯直が著した戦記物語『両豊記』にこの騒動に関する記載がある[3]。
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