謝堯
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謝堯(しゃぎょう)は、古代中国の前漢時代の官人である。紀元前66年生まれで西暦4年以降に死んだ。執金吾、大鴻臚、右扶風、将作大匠、右扶風を歴任した。関内侯。
成帝のとき、綏和元年(紀元前8年)に執金吾になった[1]。1年で異動した[2]。
綏和2年(紀元前7年)に執金吾から大鴻臚になった[3]。3年で異動した[3]。
哀帝のとき、建平2年(紀元前5年)に大鴻臚から扶風(右扶風)になった[4]。1年で異動した[4]。
平帝のとき、元始4年(紀元4年)に将作大匠から右扶風にうつった[5]。年70で病み、免じられた。関内侯の爵を授かった[5]。生年を逆算すると地節4年(紀元前66年)になる。
以上はみな『漢書』百官公卿表に記されているが、細かな齟齬がある。まず、表の綏和元年・執金吾の欄には「南陽謝堯長平一年遷」とあり、謝堯の執金吾任命に触れていない[6]。南陽、長平は南陽郡と汝南郡長平県であろうが、意味がとれない。一年後の綏和2年の欄に謝堯が執金吾から大鴻臚になったと記されているので、元年に執金吾になり一年後に異動したのであろう[7]。だとしても、綏和元年には謝堯の前に2人が執金吾に任命されており、任宏が11か月、王威が3か月で他の官に転じた[6]。二人同時に執金吾がいる事態があったのか、記述に誤りがあるかでないと年内に謝堯が収まらない。
綏和2年の欄には、3年後に大鴻臚から遷ったと書かれているが、大鴻臚から右扶風への異動は2年後の建平2年の欄にある。
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