Remove ads
日本の商人 ウィキペディアから
諸戸 清六[1](もろと せいろく、、1846年2月21日(弘化3年1月26日)[2] - 1906年(明治39年)11月12日[3])は、日本の商人(米穀商)[2]、林業家[4]、実業家。三重県の富豪・大地主[5]。幼名は民治郎[6]。族籍は三重県平民[7]。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。
伊勢国桑名郡木曽岬村(現在の三重県桑名郡木曽岬町)加路戸新田に生まれる[8]。父・清九郎の長男。諸戸家は農業を営み[9]、加路戸新田を開拓した旧家[1]・大地主[4]であったが、清六の父・清九郎が商売に失敗し、身代を潰した[9]。1847年(弘化4年)、一家は住み慣れた地を離れ、米・塩・肥料の採取業をしながら各地を転々とする[9]。やがて桑名の町に来て船馬町に小さな借家住まいをし[8]、「加路戸屋」と称し、米搗き業の傍ら船宿を営んだ[10]。
1860年(安政7年)に父が亡くなった[2]。18歳で家督を継いだ清六が受け継いだものは「布団・衣類・道具と約20石積の船一隻、1000両を越える莫大な借金」であった[9]。清六は父が残した負債を一身に担う[2]。
清六は舟人となり、貨物を運漕する[5]。また米穀仲買人になる[5]。親戚某に請い、資金80両を借り受け、始めて米穀を桑名の市場に売る[3]。
父の残した借金返済に奮闘の末、僅か3年で借金を完済。明治維新を商機として事業を拡大し、西南戦争における軍用御用(兵糧調達)での仕事ぶりで多くの政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得て、1878年(明治11年)には大蔵省御用の米買付方となった。
1884年(明治17年)に山田家屋敷跡(現在の諸戸氏庭園)を購入。居を移した後は商売だけでなく水道敷設など公共の事業も行った。
1886年(明治19年)、海防費金2万円を献し、翌年9月特旨を以て従六位に叙せらる[3]。
1904年(明治37年)、水に恵まれていなかった桑名市内に独力で水道の建設。諸戸水道完成。水道の水は、無償で提供された。(後述)
現在に伝わるエピソードは、時間を無駄にする事と、無駄金を使う事を極端に嫌っていた事を如実に示している。借金返済にあたって自ら定めた「心得二十カ条」では
などと記している。また、財を為した後でも「食事時には予め2杯の飯椀を用意しておかわりの時間を省いた」「人力車に飛び乗ると同時に走り出さないと不機嫌になった」などの話や、渋沢栄一が訪問した際に渋茶一杯しか出さなかったなどと言う逸話も残されている。
その一方で、治水事業の一環として荒れた山林を購入して植林を行ったり、学生への学費援助などを行った。また、水道を敷設して桑名の水事情を改善した。
桑名郡桑名町の水道建設計画が財政上の理由で頓挫すると、1899年(明治32年)に自家用水道を敷設し、邸前の水槽に引き入れて町民に開放した。更に1904年(明治37年)には町内55ヶ所に給水栓を設置し、町民に無料で開放した。全国でも7番目に建設されたこの水道施設は、1924年(大正13年)に桑名町に寄贈され[13]、1929年(昭和4年)まで使用された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.