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インドの州 ウィキペディアから
西ベンガル州/ウェストベンガル州(にしベンガルしゅう/ウェストベンガルしゅう、ベンガル語: পশ্চিম বঙ্গ(Pôščim Bôngô)、英語: West Bengal)は、インド東部の州。面積8万8752km2、人口1億255万人(2023年推計)[1]。
西ベンガル州 West Bengal পশ্চিমবঙ্গ | ||
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基礎情報 | ||
国 | インド | |
行政区 | 西ベンガル州 | |
州都 | コルカタ(Kolkata) | |
面積 | 88,752 km² | |
人口 | (2011年) | |
- 合計 | 91,347,736 人 | |
- 人口密度 | 1,029 人/km2 | |
時間帯 | インド標準時(IST)UTC+5:30 | |
公用語 | 英語、ベンガル語 | |
創立 | 1950年1月26日 | |
州知事 | C・V・アナンダ・ボース (C. V. Ananda Bose) | |
州首相 | マムター・バナルジー(Mamata Banerjee) | |
立法機関(議席数) | 一院制(295) | |
略称(ISO) | IN-WB | |
州公式ウェブサイト | https://www.wb.gov.in/ |
面積ではインドの州で13位、人口では4位に位置する州で、世界で8番目に人口の多い地方行政区画でもある。インド亜大陸のベンガル地方に位置し、東でバングラデシュと、北でネパールおよびブータンと隣接する。インドのジャールカンド州、オディシャ州、ビハール州、シッキム州、アッサム州とも隣接している。
州都はインド第7の都市であるコルカタ。州内にはダージリン・ヒマラヤ丘陵地域、ガンジス川デルタ、ラール地方、シュンドルボン、ベンガル湾などがある。住民は主にベンガル人で、ベンガーリー・ヒンドゥー人とともにマジョリティを構成する。
古代には諸王朝が興亡を繰り返し、仏教とヒンドゥー教の各勢力が覇権をめぐり争った。いくつかの大規模なジャナパダ(国家)の存在がわかっており、そのうち最も古いものはヴェーダ時代(紀元前1500年から前500年ごろ)にさかのぼるとされる。その後、ヴァンガ王国やマウリヤ朝、グプタ朝も現在の西ベンガル州を版図とした。ガウルの城塞は、ガウル王国やパーラ朝、セーナ朝の首都として機能した。アッバース朝との交易によってイスラームがもたらされたが、ベンガル地方全体にイスラーム信仰が行き渡るのはムハンマド・バフティヤール・ハルジーのゴール朝による征服とデリー・スルタン朝の支配を契機とした。ベンガル・スルターン朝は主要な交易路を抑えていたため、ヨーロッパ人によって「最もゆたかな交易国家」としばしば称されたが、1576年にムガル帝国に吸収された。ヒンドゥー教徒の土豪が支配した地方もあったが、それらも一部は短期間スール朝に制圧された。1700年代はじめにアウラングゼーブが死去して以降はベンガル太守のもと、ムガル帝国から半独立状態となり、第一次産業革命のきざしが見えはじめたが[2][3]、ブクサールの戦い後の1764年にイギリス東インド会社によってベンガル管区が置かれた[4]。1772年から1911年まで、カルカッタには英領東インド会社の本拠地が置かれ、インド帝国成立後はその首都となった[5]。首都がデリーに移転して以降も、1947年の独立までベンガル州の州都であり続けた[6]。
植民地期にはインド独立運動の温床で、かつインドの芸術・知的活動の中心地ともなった[7]。1947年、打ち続く宗派間の抗争をうけて、ベンガル州の上下両院はベンガル分割を決議し、ヒンドゥー教徒主体の西ベンガルはインドの一州に、ムスリム主体の東ベンガルはパキスタン(のちバングラデシュ)の一州となった。独立後は数十年間にわたって東ベンガルからのヒンドゥー教徒避難民が州内にあふれ、州の地勢や政治に大きな影響を与えた[8][9]。早くからイギリスの支配を受けたことによって西洋教育が発展し、科学や教育、社会改革などの分野で「ベンガル・ルネサンス」と呼ばれるような動きに結実した。
州内総生産はインドの州で第6位となる17兆1900億インド・ルピー(2023年 - 24年、以下ルピー)[10]、州民ひとりあたりの州内総生産は同20位の12万1267ルピー(2020年 - 21年)である[11]。近年急速に発展してはいるが、用地買収の難しさやインフラの貧弱さ、非効率な行政などから外国直接投資の呼び込みに苦労してきた[12][13]。人間開発指数はインドの州で26位で、全国平均を下回っている[14]。州政府の債務は6兆4700億ルピーで、これは州内総生産の37.67%にあたるが、2010 - 11年の40.65%に比べれば下落した[15][10]。3つの世界遺産があり、観光客数はインドの州で3番目に多い[16]。
植民地時代はベンガル州の一部だったが、1947年のインド・パキスタン分離独立にともない、東ベンガルはパキスタン領(東パキスタン、現在のバングラデシュ)となったため、西ベンガルのみで州を形成した。
南はベンガル湾に面する。南西から時計回りに、オリッサ州、ビハール州、ジャールカンド州、ネパール、シッキム州、ブータン、アッサム州、バングラデシュと接する。
バングラデシュを挟んでインド北東部のアッサム地方とインド亜大陸を結ぶ位置にある。北はネパールとブータンに挟まれたヒマラヤ山脈から南はベンガル湾に至る。ガンジス川流域の大部分に相当する。 気候は北の亜熱帯から南の熱帯サバンナに及ぶ。ベンガル湾で発達したモンスーンが大量の降雨をもたらす。ダージリンでは年間2,500mmに達する。
一院制の州議会をもち、295人の議員で構成されており任期は5年である[18]。国政レベルでは、下院であるローク・サバーの42議席[19]と上院であるラージヤ・サバーの16議席が割り当てられている[20]
州議会では、1977年からインド共産党マルクス主義派を中心とした左翼戦線政権が長期間続いていた[21]。この長期政権は、民主的な選挙によって成立した共産党政権としては、世界的にも前例がない34年間にもわたって存続した。しかし2011年の州議会選挙では、全インド草の根会議派とインド国民会議などの連合に敗北し政権の座を明け渡している[22]
氏名 | 在任期間 | 党派 | |
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ビダン・チャンドラ・ロイ | 1950年1月26日 - 1962年7月1日 | インド国民会議 | |
プラフラ・チャンドラ・セン | 1962年7月9日 - 1967年2月28日 | ||
アジョイ・ムケルジー | 1967年3月1日 - 1967年11月21日 | ベンガル会議 | |
プラフラ・チャンドラ・ゴーシュ | 1967年11月21日 - 1968年2月19日 | 無所属 | |
アジョイ・ムケルジー | 1969年2月25日 - 1970年3月16日 | ベンガル会議 | |
アジョイ・ムケルジー | 1971年4月2日 - 1971年6月28日 | インド国民会議 | |
シッダールタ・シャンカー・レイ | 1972年3月20日 - 1977年4月30日 | ||
ジョティ・バス | 1977年6月21日 - 2000年11月5日 | インド共産党マルクス主義派 | |
ブッダデーブ・バッターチャルジー | 2000年11月6日 - 2011年5月13日 | ||
マムター・バナルジー | 2011年5月20日 - (現職) | 全インド草の根会議派 |
ヒンドゥー教徒が一番多く、ベンガル人のヒンドゥー教徒がおよそ6000万人で、人口の58%を占めている。ベンガル人以外のヒンドゥー教徒も含めると全体の70%になる。それ以外では、イスラム教が27%、キリスト教が0.7%、仏教が0.3%、シク教が0.06%、ジャイナ教が0.06%、その他または無宗教が1.03%である[23]。
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