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蘭亭序(らんていじょ)は、王羲之による行書の有名な書作品である。
353年(永和9年)3月3日、王羲之は名士や一族を会稽山の麓の名勝・蘭亭(現在は浙江省紹興市)に招き、総勢42名で曲水の宴を開いた。その時に作られた詩37編(蘭亭集)の序文として王が書いたもの(草稿)が「蘭亭序」である。王は書いたときに酔っており、心のまま筆を動かして書き上げられた。後に何度も清書しようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられる、いわゆる「率意」の書(練習や下書きを経る「作品」のように「人に見てもらうこと」を意識せずに書かれた書という意)である。28行324字。
王羲之の書の真偽鑑定を行った唐の褚遂良は『晋右軍王羲之書目』において行書の第一番に「永和九年 二八行 蘭亭序」と掲載している。
自らが能書家としても知られる唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子である弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に副葬させた話は、唐の何延之の『蘭亭記』に載っている。
したがって、蘭亭序の王羲之の真跡は現存しない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨模したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。
本書が誕生するまでは漢代以来の隷書体が主流であったが、王羲之が当時徐々に貴族達に好まれつつあった楷書、行書、草書を用いて書を記したことにより、新しい書体が人々に広がるきっかけとなった。
墨跡では清の乾隆帝が蒐集した三点の模写本が有名である(北京故宮博物院所蔵)。
ともあれ、各臨模本を実際に初唐の能筆が臨模したという根拠はない。
石板や木板に蘭亭序を模刻し、それから制作された拓本のなかで、古来最も貴ばれたものは、五代~北宋時代初期に碑石が定武郡で発見された定武本である。同系列として開皇本がある。定武本は一般に欧陽詢が臨模したと伝えられるが、これも根拠はない。定武本には覆刻本が非常に多い。その他に張金界奴本と神龍半印本が有名であり、手本としてよく用いられる。張金界奴本は八柱第一本を原本とし、穏やかな書風で神龍半印本よりも評価が高い。秋碧堂帖や余清斎帖がある。神龍半印本は八柱第三本を基とするが、筆意が墨跡より自然であるといわれる。
また、蘭亭序を『蘭亭叙』と表記する向きもあるが、これは蘇軾が祖父の名前「序」を避けて以来広まったのであって、あえて「叙」と表す必要はない。
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