藤野天光
日本の彫刻家(1903-1974) ウィキペディアから
藤野 天光(ふじの てんこう、1903年(明治36年)9月27日[注釈 1] - 1974年(昭和49年)12月30日)は、日本の彫刻家[1]。本名は藤野隆秋[1][3]。号は当初舜正(しゅんせい)、後に天光に改めた[1][3]。
群馬県館林町裏宿(現館林市城町付近)出身[2]。千葉県市川市の地域文化発展に貢献[1]。日展審査員を6回、さらに理事をつとめた[3]。
戦後は文化運動者としても活動した[2][5]。また師北村西望作の長崎平和祈念像の制作筆頭助手をつとめた[2]。晩年は千葉県立美術館の建設促進に献身した[3][6]。
略歴
要約
視点
1903年(明治36年)9月27日、藤野隆秋として[1]群馬県館林市に生まれる[2]。
1928年(昭和3年)、東京美術学校(現東京芸術大学)彫塑部卒業、在学中は北村西望に師事[1][5]。
1929年(昭和4年)、第10回帝展に「ときのながれ」で初入選(以後連続入選、特選3回)[2][3][5][6]。「ときのながれ」は後にアメリカ合衆国のニューヨークで開催された万国博覧会(1939年(昭和14年))に出品され注目を集めた[2]。また、この年より戦後まで継続して作品の発表を続けた[3]。
1938年(昭和13年)、第2回新文展で「銃後工場の護り」が特選受賞[2]。
1941年(昭和16年)、小室翠雲らと群馬美術協会を発足させる[2]。
1945年(昭和20年)、市川市美術会結成[5]。
1947年(昭和22年)、日本彫刻家連盟設立に参加[3]。
1948年(昭和23年)、千葉県美術会結成、常任理事となった[3]。
1949年(昭和24年)、日展審査員として第5回日展に出品した「古橋選手」(水泳選手古橋廣之進モチーフ)が話題作となる[3]。
1958年(昭和33年)、社団法人日展が創立され、日展評議員に就任した[3]。
1960年(昭和35年)、県立美術館設置準備専門委員に就任、1964年(昭和39年)までつとめる[3]。また同年文部省(現文部科学省)文化財保護委員会文化財功労賞を受賞[3]。
1961年(昭和36年)、この頃より千葉県内の仏像修理を始める[3]。1974年(昭和49年)までに県内仏閣設置の毘沙門天像、両脇侍、薬師坐像、仁王像などを修理した[3]。
1966年(昭和41年)、昭和40年第8回新日展出品作「光は大空より」が日本芸術院賞を受賞[1][2][4]。
1966年(昭和41年)、千葉県美術会理事長に就任[3]。同年東京家政大学理事兼教授となる[3]。
1968年(昭和43年)、号を舜正から天光に改める[3]。同年声帯摘出手術、群馬県美術会副会長就任[3]。
1969年(昭和44年)、日展理事に就任[5]。同年、千葉県市川市教育功労者として市川市長感謝状を受ける[3]。
1970年(昭和45年)、社団法人日本彫塑会創立に尽力し、同会常任理事となる[3]。
1973年(昭和48年)、千葉県開催となった第28回若潮国民体育大会(国体)モニュメントとして8メートル男性像「輝く太陽」および記念メダルを制作した[3]。
1974年(昭和49年)、千葉県立美術館協議会委員を委嘱され議長を務める[5]。同年12月30日、急性心不全により千葉県市川市のアトリエで死去、享年72[2][3]。
作品
作品名 | 制作年 | 備考 | |||
「夢」 | - | 1932年 (昭和7年) | - | 館林市彫刻の小径設置(1991年)[2]。 | |
「光は大空より」 | - | 1965年(昭和40年) | - | 日本芸術院蔵[4] | |
「鉄工」 | - | 1936年(昭和11年) | - | [3] | |
「輝く太陽」 | - | 1973年(昭和28年) | - | 第28回国民体育大会モニュメント[3]。 |
脚注
参考文献
外部リンク
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