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藤田 湘子(ふじた しょうし、1926年1月11日 - 2005年4月15日)は、日本の俳人。水原秋桜子に師事。俳誌「鷹」を創刊・主宰。本名・良久。神奈川県出身。
父源太郎、母ミネの長男として、神奈川県小田原町(現 小田原市)に生まれる[1]。1942年、中学在学中に「馬酔木」に入会し、水原秋桜子に師事[1]。石田波郷に兄事[1]。1945年、工学院工専(現工学院大学)を中退、東部第八七部隊を経て鉄道省に勤務。1947年、「馬酔木」4月号で巻頭。1948年、馬酔木賞を受賞、翌年より「馬酔木」同人。1951年、「馬酔木」第1回新樹賞受賞。1955年、第4回新樹賞受賞。同年「馬酔木」編集次長就任。1957年、「馬酔木」編集長就任、第4回馬酔木賞受賞。1958年、国鉄本社広報課勤務、以後22年間在職。
1964年、秋桜子の了承を得て、「馬酔木」の衛星誌として同人誌「鷹」を創刊。1967年、「馬酔木」編集長辞任。1968年、「馬酔木」からその活動が認められなくなったことで、他の「鷹」発起同人が「鷹」を去る。湘子は「馬酔木」同人を辞退し、「鷹」を自身の主宰誌とする。1981年から1983年まで現代俳句協会副会長。1985年、蛇笏賞選考委員。1986年、俳句研究賞選考委員。2000年、句集『神楽』で第15回詩歌文学館賞受賞。2005年4月15日、胃癌により横浜市青葉区の自宅にて死去。79歳。
以下の代表句がある。
初期に秋桜子風の叙情句に傾倒、戦後に石田波郷らが「馬酔木」に戻ると、その境涯俳句に心酔し影響を受けた。また国鉄労組員として砂川基地拡張反対運動にも参加、一時社会性俳句にも影響を受ける。1983年3月には、新境地を開くため高浜虚子を念頭に「一日十句」という多作の試みを開始し、その句作を「鷹」に発表するという異例の試みを3年にわたって実行した[1]。中原道夫は「多作によって素材の幅が広がり、湘子俳句の底辺に流れる叙情性に加え、俳句本来の挨拶性、即興性、諧謔性を獲得することになった」(『現代俳句大事典』)と評している。
門下に飯島晴子[1]、酒井鱒吉、永島靖子、小澤實、奥坂まや、小川軽舟、高柳克弘など。また、遠山陽子、長峰竹芳、宮坂静生、辻桃子、松田ひろむなども一時期、湘子の薫陶を受けている。
結社運営においては年功序列を廃し、個性重視・実力主義の方針を貫いた。1996年には結社のマンネリ化を打破するため第二次「鷹」を発足し、二物衝撃を基本理念とし俳句の散文化に対抗した[1]。また一般向けの実作指導書もいくつか執筆しており、1988年に最初の版が出された『20週俳句入門』は俳句入門書の定番としてロングセラーとなっている[1]。
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