藤原定長
日本の鎌倉時代の公家、正三位・参議 ウィキペディアから
藤原 定長(ふじわら の さだなが)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の五男。官位は正三位・参議。霊山と号す。
経歴
諸国の国司を経た後、勧修寺流の子弟の常として実務官僚としての実績を積み、後白河院の信任を得て三事兼帯を果たす。これは兄の吉田経房・九条光長と並ぶ栄誉であり、三兄弟としてのそれは古今に類例のないことと賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。
後白河院の傍にあって実質的に院伝奏の任に当たり、特に文治年間には頻繁に鎌倉幕府との連絡役を務めていたことが『吾妻鏡』にも記録されている。文治5年(1189年)7月に参議に任ぜられ、建久6年(1195年)1月には正三位に昇るが、同年11月に薨去。享年47。
系譜
出典
- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉』吉川弘文館
- 『新訂増補国史大系・公卿補任』吉川弘文館
- 『鎌倉・室町人名事典』安田元久・編
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