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平安末期~鎌倉時代初期の公卿。『山槐記』。藤原忠宗の三男。正二位・内大臣。中山家初代。 ウィキペディアから
中山 忠親(なかやま ただちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位・内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号した。中山家の始祖。
保延6年(1140年)、従五位下となる。蔵人、近衛少将・中将、蔵人頭を歴任。長寛2年(1164年)に参議、仁安2年(1167年)に従三位権中納言、さらに右衛門督・検非違使別当となる。兄・藤原忠雅と同様に平氏一門と親しく、平徳子の中宮権大夫・建礼門院別当として仕えた。後白河法皇の院庁別当にも名を連ね、有職故実に明るく「年来礼儀作法の道を営む、当時頗るその褒(ほまれ)あり」[1]と評された。治承三年の政変では、解官された甥・花山院兼雅に代わって春宮大夫となる。
寿永2年(1183年)正月に正二位・権大納言となるが、同年7月に平氏一門が都落ちした後は昇進が停滞する。文治元年(1185年)12月、源頼朝から有職の公卿であることを評価されて、議奏公卿に推挙された。建久2年(1191年)に内大臣に就任。建久5年(1194年)に出家して静和と号した。翌年3月に薨御。享年65。
晩年には洛東の中山(現在の左京区黒谷町から岡崎周辺)に別宅を構えたことから中山内府(内大臣)の名があり、後の家名ともなった。
※日付=旧暦
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