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薬丸 兼慶(やくまる かねよし)は、江戸時代中期の薩摩藩士。剣客。晩年になって活慶と号した。薬丸兼陳の外孫で黒葛原俊宗[2]の三男であり、薬丸兼福の養子となった。
元禄12年(1699年)8月28日に跡目養子成のお目見えを得る。宝永4年(1707年)9月28日に高奉行に就任。このとき、一代小番か。正徳4年(1714年)8月28日に船奉行に就任。享保3年(1718年)1月11日に物頭[5]に就任。享保9年(1724年)1月11日、諸県郡須木郷地頭に就任。
享保14年(1729年)、平田兵十郎(のちの平田靱負)が物頭就任し、同僚となる。享保16年(1731年)、町奉行[6]に就任。享保18年(1733年)に示現流の四代目宗家である東郷実満が死去し、孫の実昉(さねはる)が継いだ。実満の長子である位照は次男実勝との家督争いで遠島になっており、実勝も家督を継げなかった上、甥で新宗家の実昉をないがしろにして島津吉貴の怒りをかい、同じく遠島となった。しかしながら実昉や実満四男実賢等、鹿児島に残った東郷家一族は皆若年で門弟を統べる力量はなかった[7]。門弟たちは再び示現流が衰える[8]ことを憂い、島津吉貴の許可を得て、薬丸兼慶を東郷家の代理として指南させることにした。
寛保初期、実昉や実賢が成長したことを受け、家伝の剣術に打ち込むとして宗家代理の役目を降りた。
元文2年(1737年)4月27日に高隈地頭に就任。元文5年(1740年)2月15日に役料として高90石を賜る。[9]寛延4年(1751年)に高隈郷地頭を辞任する。
宝暦元年(1751年)に隠居し、子の兼雄に家督を譲る。宝暦4年(1754年)に兼雄死去し、翌年孫の兼中が相続。宝暦8年(1758年)9月17日暁に病死。
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