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蒙古地方(もうこ/モンゴル-ちほう)は、中華民国が、実効支配できなかったモンゴル北部に対し、領有を主張して名目上設置した省級行政区画。いわゆる外蒙古にダリガンガ牧場、ホブド地方等をあわせた範囲に相当し、現在のモンゴル国とロシア連邦トゥヴァ共和国(唐努烏梁海、タンヌ・ウリャンカイ)を含む。地方政府所在地は庫倫(ニースレル・フレー)(現在のウランバートル)。
1910年、外藩蒙古の北部ハルハに「新政」が施行されたのをきっかけとして反清独立運動がおこり、1911年、化身ラマのジェプツンダンバ・ホトクト8世が皇帝(ボグド・ハーン)に推戴されてボグド・ハーン政権が発足した。ボグド・ハーン政権はモンゴル全土の統合をめざし、独立戦争の当初は一時的に外蒙古全域に加え、西モンゴルのホブド、内蒙古49旗中35旗を制圧したが、1910年代の半ばになると、その勢力圏には外蒙古にダリガンガ牧場、ホブド地方を合わせた範囲に縮小した。その後、1921年にボグド・ハーン政権は革命で共産化し、1924年には正式な社会主義国家としてモンゴル人民共和国となり、ソ蒙相互援助議定書でソ連軍が駐屯することになった。中華民国の歴代政権は、実効支配できない上記領域を「蒙古」と称し、名目上「中華民国に属する地方」と位置づけた。1945年8月のソ連対日参戦で内蒙古は東部から西部までモンゴル人民軍に占領され[2]、その影響で内モンゴル人民共和国や東モンゴル自治政府、フルンボイル地方自治政府など内外モンゴル統一運動が勃発する。
ヤルタ協定第1条により英・米・ソの三国が「外蒙古の現状の維持」すなわちモンゴルの北部を領土とするモンゴル人民共和国の独立を承認したことに抗し切れず、最終的に1946年1月、中華民国国民政府の蔣介石は内蒙古からのモンゴル人民軍撤収と「国民投票による住人の意思の確認」(外モンゴル独立公民投票)を条件として、モンゴルの北部である「蒙古」の独立を承認した。
中華民国政府は、中国大陸における領土を全て失った後の1953年、中ソ友好同盟条約(1945年締結)を正式に破棄した際に、モンゴル人民共和国に対する独立の承認も撤回したと解釈された[3]。
民主進歩党の陳水扁政権は実質的にモンゴル独立を認めており、2002年にはウランバートルに事実上の大使館にあたる台北貿易経済代表処が、台北市にはモンゴル国の貿易代表事務所が相互に開設された。外交部のウェブサイトにもモンゴル国の「國情簡介」ページが掲載された[4]。
中国国民党の馬英九政権下の2012年には、行政院大陸委員会が、1946年の中華民国憲法制定の時点でモンゴルの独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」にモンゴルは含まれないとの見解を発表した[5]。
設立時から下位行政区分は変動しており、2004年の中華民国主計所の『中華民国各省県行政区域代碼』(2005年廃止)では蒙古地方を克魯倫巴爾和屯盟、汗阿林盟、斉斉爾里克盟(齊齊爾里克盟)、扎克畢拉色欽畢都爾諾爾盟、三音済雅哈図左翼盟(三音濟雅哈圖左翼盟)、三音済雅哈図右翼盟(三音濟雅哈圖右翼盟)、唐努烏梁海などに区分していた。1940年代~1950年代の間の中華民国における蒙古地方の行政区分は以下の通り:
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