葛原運次郎
大正から昭和時代前期の政治家 ウィキペディアから
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大正から昭和時代前期の政治家 ウィキペディアから
葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉[1] - 1945年〈昭和20年〉12月[2])は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県南津軽郡田舎館村長、弘前市長。
青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身[3]。東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む[1]。1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る[1]。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年(大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる[1]。
1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職[1]。1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した[1][3]。
太平洋戦争末期から終戦時の混乱期で市政を担当し、県の師範学校の誘致などに尽力したが、在任中に急逝した[1]。
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