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山形県村山市と寒河江市にまたがる山 ウィキペディアから
葉山(はやま)は、山形県村山市と寒河江市の市境上にある標高1,462mの山。全国の他の葉山と区別するために村山葉山と呼ばれることもあるが、地元では単に葉山と呼ばれる。かつては山岳信仰の対象となっていた。
葉山は出羽山地に位置している第三紀の成層火山で、かつては第四紀の火山に分類されることもあったが、K-Ar年代の測定により、419万年前~361万年前の数値が出たため[1][2]、第三紀の火山に分類されている[1][2]。
このように葉山はすでに活動を終え、かなりの時間が過ぎたいわゆる死火山であるが、山体にはかつて噴火活動があった形跡として2か所の爆裂火口が山頂部に残る。その頃に噴出したものと推定される泥流が山に堆積している。
自然面では、山頂近くまでブナ林が分布し、高山植物もみられる。湿地帯もある。山頂には奥の院(葉山神社)があり、一等三角点が設置されている。
葉山は、山岳信仰の山として東北地方一円の尊敬を受けていた。
東北地方には、葉山信仰と呼ばれる信仰がある。葉山は「羽山」「端山」とも書かれ、里から離れた「奥山」に対し、里に近い山という意味をもつ。葉山には農業の神が住むとされ、季節の折々に山に登り、五穀豊穣を祈った。村山葉山は特に、役小角が山を開いて以降は修験道の山となり、山麓に寺院や宿坊が作られ、江戸時代初期までは羽黒山・月山とともに出羽三山の一山に数えられていた。のちに出羽三山の一山となる湯殿山を奥山に見立て、その手前にある葉山という形である。葉山の神は、「葉山薬師権現」と呼ばれていた。
初期には、天台宗・真言宗兼学の慈恩寺が葉山別当寺であり、この地を領していた大江氏、最上氏の庇護を受けつつ葉山修験の中心となっていたが、天文年間に慈恩寺が葉山と関係を絶ち、三合山(十部一峠)を奥の院としてからは葉山の山岳修験は衰退し、いつしか出羽三山からも外れることとなった。
江戸時代には、寒河江市畑にあった天台宗大円院が葉山修験の中心となった。かつては12坊の壮大な伽藍を誇り、新庄藩の庇護を受け、新庄藩の祈祷所でもあった。葉山は、農業の神のみならず、最上川水運の守り神として、船頭からも尊敬されたという。
明治時代になると、葉山修験はますます衰亡し、1946年(昭和21年)大円院の敷地がGHQアメリカ陸軍大高根演習場の着弾地に指定されると、大円院への立ち入りが禁止され、寺院は取り壊されて葉山修験はほぼ消滅してしまった。なお、大円院は規模を大幅に縮小して1950年(昭和25年)に村山市岩野に移転し、寺院として現存している。また、もともと葉山で修験を行っていた坊が、慈恩寺の坊として寒河江市慈恩寺に現存する。
山頂に奥の院(葉山神社)あり。奥の院の周囲は湿地となっており、高山植物が楽しめる。
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