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1972年(昭和47年)秋、小林は翌年春に開催予定の第9回波の会コンサートのために、主宰者であるアルト歌手・四家文子から同会の副会長を務めた野上彰を追悼するための作曲依頼を受ける。四家から野上の遺稿を手渡された小林は、その中の『落葉松』という詩に目を留めた。
野上は、師事した川端康成の山荘がある軽井沢に足繁く通い、詩作の多くに浅間高原の自然や小動物が登場する。この詩は野上が、1945年(昭和20年)秋に書いたもの(もしくはそのイメージで書かれたもの)であり、1959年(昭和34年)出版の野上の小説「軽井沢物語」の巻末に掲げられている。小林は「私にとっても上州は父方の祖先墳墓の地であり、少年時代から父に連れられて通った落葉松林の四季折々の風情が、この詩を前にして鮮やかに浮かび上がり激しい感動を覚え、独唱とピアノのための初稿を一気に書き上げた。」[1][2]としている。
初演は1973年(昭和48年)4月24日、ソプラノ=小林久美(小林秀雄の妻)、ピアノ=鷹取淑子により行われ、「高い評価を得た」[1][2]。四家はこの曲のレッスンの際、突然絶句して涙を拭ったという[1]。
以後、日本歌曲として愛唱されたこの曲は1976年(昭和51年)、鎌倉女子大学教授・蓑田良子の勧めにより女声合唱に編曲され、その後、混声合唱、男声合唱、ピアノ曲としても編曲され、作曲から40年以上たった現在でも広く演奏され続けている。もっとも、実際の演奏に際して小林は「野上氏の名吟に導かれて生まれた<この音楽>は、五線紙を前にした私に囁きかけた。「人の心の深い奥底を見つめ、ぼくは、この曲の声のパートの始まりを、遠くからやって来ることにするよ」と。だから私は歌い出しにppと書かせてもらった。しかるにfやffで歌い始める唱者、奏者の何と多いことだろう!独唱も合唱も、奏者の多くは、なぜ<声の誇示>にしか、関心がないのだろう?」[1]と、自らの意図からかけ離れた演奏が多いことを嘆いている。
表題曲を含む全4曲の合唱曲集として1976年から1980年にかけて作曲された。女声合唱版の出版は1982年(昭和57年)、混声合唱版の出版は1984年(昭和59年)である。なお男声合唱版は表題曲のみの単曲の合唱曲として出版されている。なお、2000年に改訂されている。
出版譜の前書きで小林は「私は、歌詞や内容のすべてが聴衆に完全に伝わる、明るい音楽を創作の中心に据えます。そして、粗雑で軽薄な音楽を排します。」「「明るい、わかりやすい音楽を、正格な技術で演奏する。内容や心は、それに乗って滲み出てくる」。これが音楽です。」として、当時の合唱コンクール等に見られた「陰湿な精神主義」[3]や「技術の拙劣さを心や情緒の話にすり替えてしまいます」[3]といった風潮を厳しく批判している。
全4曲からなる。以下、改訂版の記載に基づいて述べる。
全音楽譜出版社から出版されている。女声合唱版、混声合唱版は現在「改訂版」が流通している。
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