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菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。
陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。
1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。このころ上下の信頼を得て、1840年(天保11年)12月には日詰御蔵奉行となった。その後、勘定奉行、金山御用掛、軍艦製造御用掛を歴任、1852年(嘉永5年)6月には100石を給せられ、菊池氏に復している。しかし、金吾を抜擢した藩主南部利済の失脚とともに蟄居を命じられ、以後1868年(明治元年)まで幽閉され、藩の公務から遠ざかった。その間に佐藤清右衛門とともに家産の利殖を図っている。
1873年(明治6年)1月、県令の島惟精とともに地元の殖産興業を図るため、中の橋の際に機業場の開設を計画、同年12月に設置した。ここで盛岡藩士の子弟たちに機業技術を習得させた。また1876年(明治9年)と1881年(明治14年)の明治天皇の東北御巡幸の際に、金吾の私邸が行在所となり陛下が泊まっている。屋敷は現存しないが、庭園は「賜松園(ししょうえん)」という名前で、現在は杜陵老人福祉センターの庭園として、盛岡市肴町に残されている。明治26年5月4日没。行年82歳。墓所は盛岡にある藩主菩提寺の聖寿寺と東京の青山霊園にある。このうち聖寿寺の墓石の碑文は伊藤博文が刻んでいる[1]。
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