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良子内親王(ながこ[1](りょうし)ないしんのう、長元2年12月13日(1030年1月19日) - 承暦元年8月26日(1077年9月15日))は、第67代後朱雀天皇第一皇女。母は皇后禎子内親王。一品准三宮、伊勢斎宮。同母妹に娟子内親王(賀茂斎院)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。
後朱雀天皇即位に伴い、長元9年(1036年)11月28日、8歳で斎宮に卜定(妹娟子内親王も同日に斎院卜定)。同年12月、内親王宣下と共に二品。長暦元年(1037年)4月3日、大膳職へ初斎院入り。同年9月17日野宮へ入り、長暦2年(1038年)9月11日に権中納言藤原資平を長奉送使として伊勢へ群行。長久3年(1042年)6月裳着、一品。寛徳2年(1045年)1月准三宮、同16日、後朱雀天皇譲位により17歳で退下。同年4月28日に帰京の後は、母の下で弟妹らと暮らしたとみられる。承暦元年(1077年)、疱瘡のため49歳で薨去した。
良子内親王の伊勢への群行に際しては、同行した資平の子藤原資房がその日記『春記』に詳細な記録を残しており、これが知られる限り群行に関する唯一の同時代史料となっている。また長暦4年(1040年)5月6日に催された貝合わせはその雅やかな儀式の詳細が作者不明の『斎宮貝合日記』に記されており、これも最古の貝合記録として貴重である。
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