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翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治維新期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船[1])である。
1864年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船「ロチウス」が前身だという[1]。
1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた[1][2]。旧幕府海軍の「咸臨丸」、「回天」が「翔凰丸」を追跡したが、前者は帆船となっていたため脱落した[3]。「翔凰丸」は28発被弾するも、最終的に観音崎付近で「回天」を振り切り、伊豆子浦港での応急修理後、慶応4年1月2日に兵庫沖に着いた[4]。 このとき大砲を用いたが、1発ずつ撃ったのみで4門とも故障したという[要出典]。ただし2発が回天丸に命中した[5]。
鳥羽・伏見の戦いが起こると兵庫港封鎖部隊が移動し、その隙に同地の薩摩艦「春日丸」、「翔凰丸」、「平運丸」は脱出を図った[6]。「翔凰丸」は「春日丸」に曳航されたが、「春日丸」は「平運丸」と衝突し舵輪を損傷した[6]。「春日丸」と「翔凰丸」は「開陽」に捕捉され、「春日丸」は「翔凰丸」を分離して「開陽」と交戦[6]。一方、「翔凰丸」は阿波由岐浦で座礁し、焼かれた[6]。この海戦は阿波沖海戦という[6]。
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