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長野市街地にほど近い住宅街の駅前にあるが、境内は森閑としている。特徴的な三ツ鳥居(三輪鳥居)が立ち、境内には100近い石祠群(境内百末社)が立ち並ぶ。この石祠群の神々に祝膳を捧げる越年祭は、他に類を見ない特殊神事である。
本郷、相ノ木東、相ノ木西、横山、淀ヶ橋、三輪田町、荒屋の7町で祭事を行っている。
創建は不詳。祭神・社名とも大和国の大神神社と同じで三輪系の神社であるが、その由来は定かでない。『善光寺縁起』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、このとき大神神社の神体を奉納したので大神神社には神体がない、という伝説が記されている[1]。これはこの地に三輪氏系の人々が移住したことを示すとも解され、周辺には時丸の塚と称するものと時丸寺がある[1]。また、長野市信更町田野口にある松ノ山窯跡からは、堺市に存在する陶邑窯跡群と形態的・技術的類似性が認められる土器が出土しており(和泉陶邑窯編年で6世紀初頭と考えられているTK47型式(~MT15型式)に比定されている)、陶邑の窯は三輪氏の配下の渡来人が運営していたと考えられていることから、ここからも三輪氏が長野市に移住してきていた可能性が指摘されている[3][4]。
文献上は、貞観3年(861年)に相殿神の国業比売神に神階が授けられたという記述[5]が初出。
貞観8年(866年)には兵疾の災いを防ぐため、「三和神・神部神」への奉幣読経がなされており[6]、この地方の重要な神であったことがうかがわれる[1]。『延喜式神名帳』には「信濃国水内郡 美和神社」と記載され、式内社に列している。
旧称は「三輪神社」であったが、安永3年(1774年)に吉田家から許可を受け現在の「美和神社」に改称した[1]。寛政5年(1793年)、現在の社殿が造営された。
社殿は寛政5年(1793年)の再建。
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