織田 長政(おだ ながまさ)は、江戸時代前期の旗本。名は友貞とも。通称は右兵衛、数馬助、式部。官位は従五位下・式部少輔、対馬守。幕府定火消。
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生涯
大和国宇陀松山藩主・織田高長の三男として誕生した。生母は富田氏。
承応3年(1654年)12月28日、従五位下・式部少輔に叙任する。後に対馬守に改める。万治3年(1660年)9月10日、兄・長頼から大和宇陀郡内10ヵ村で3000石を分与される。始め陣屋を西峠村に構え、後に福知村に移転した。そのため、「福知の殿様」と称されたようである。また、分家にあたり、宇陀松山藩士中山甚五兵衛・田村可左衛門らを家来としてつけられる。同年11月28日、領地に赴く許可を得る。長政は参勤交代をする旗本、すなわち交代寄合であった。なお、子の信明の代に高家旗本になる。
系譜
子女は3男1女。
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