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13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治12年)11月21日[1] - 1966年(昭和41年)9月4日[2])は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。
島根県出雲郡原鹿村[1][3](現出雲市斐川町原鹿)で、地主・江角勝太郎の二男として生まれた[1][3]。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した[1][3]。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した[1][3]。
家業の製鉄業を1922年[注 1]に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した[1][3]。農業分野では、先代から引き継いだ開墾事業を継続し[4]、また、農事改良組織「絲原農会」を組織して、地主小作間の調整を図り、小作人の技術指導を行った[3]。
金融界では、1911年に八雲銀行頭取に就任し、1916年、松江銀行などと合併して新たな松江銀行が誕生すると頭取に就任[1][3]。1941年、米子銀行と合併して山陰合同銀行が設立すると取締役となり、1959年から死去するまで会長を務めた[1][3]。
先代からの願望であった宍道(現松江市)から木次(現雲南市)間の鉄道敷設のため、1914年に私鉄簸上鉄道株式会社を設立して社長に就任し、1916年に営業を実現し、1934年の鉄道省移管まで社長を務めた[1][3]。
その他、1940年から出雲電気社長を務めたほか[5]、山上生産取締役、山陰新聞社長、島根県農会長、同山林会副会長、同米穀会副会頭、帝国中央畜産会評議員、帝国農会議員などを務めた[2]。政界では、八川村会議員を務め、1925年9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[6]、1939年9月28日まで二期在任した[2]。
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