紀元前366年
年 ウィキペディアから
紀元前366年(きげんぜん366ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「マメルキヌスとラテラヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元388年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前366年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ペルシア帝国
ギリシア
シチリア
- シュラクサイの新しい僭主ディオニュシオス2世 (Dionysius II of Syracuse) を、プラトンの哲学原理を実際に応用して教育しようとしたディオン(ディオニュシオス1世の義弟)とプラトンの取り組みは失敗し、ディオンとプラトンはシュラクサイから追放された。
共和政ローマ
- (リキニウス・セクスティウス法が発効し)軍人の護民官が執政官(コンスル)の権能をもつことが廃止され、2人の執政官(コンスル)を立てる制度が復活した。新たな裁判制度が整備され、法務官(プラエトル)が置かれることになった。法務官は、民会によって1年ごとに選出され、民事訴訟の裁判を取り扱うことで執政官の負担を軽減することになった。法務官は執政官に次ぐ公職と見なされた。さらに法務官は、軍に命令を出すこと、元老院ないし民会を召集すること、執政官の代理を務めることも認められていた。
- 造営官(アエディリス)に属する共和政ローマの新たな官職として、2人のアエディリス・クルリス(上級造営官、aediles curules)が設けられた。この職は、当初はパトリキ(貴族)が占めたが、翌年以降は、隔年でパトリキとプレブス(平民)が交互にするようになった。アエディリス・クルリスを選出するのは、執政官が主宰するトリブス民会であった。
中国
芸術
誕生
→「Category:紀元前366年生」も参照
死去
→「Category:紀元前366年没」も参照
脚注
関連項目
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