紀元前307年(きげんぜん307ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「カエクスとウィオレンスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元447年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前307年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
バビロニア
エジプト
- プトレマイオス1世は、デメトリオス1世の協力を得て、アレクサンドリア図書館と博物館を建設した。アレクサンドロス3世と同様に、プトレマイオス1世はアリストテレスに学び、博物館に勤める100名程度の専門家には、国から給与が支払われた。
ギリシア
シチリア
中国
- 秦の甘茂が韓の宜陽を攻撃したが、5カ月経っても陥落させられなかったため、武王は甘茂を召還して軍を撤退させようとした。甘茂が息壌の盟約を武王に思い出させると、武王は大規模な援軍を編成して、甘茂を助けた。宜陽が陥落すると、韓の公仲侈が秦に入国して陳謝し、講和を願い出た。
- 秦の武王は力比べを好み、力士の任鄙・烏獲・孟説らはみな大官に上った。この年の8月、武王と孟説は鼎を持ち上げる勝負をしていたところ、武王は脈が絶えて突然死した。孟説の一族はみな処刑された。武王には子がいなかったため、燕に人質として異母弟の稷(昭襄王)を擁立して即位させた。昭襄王の母の宣太后が朝政の実権を握り、武王の遺臣の樗里疾・甘茂・向寿・公孫奭らが国政を運営した。
- 趙の武霊王が中山国を攻撃し、房子に達した。武霊王は趙軍に胡服騎射を採用して、軍事の強化を図った。
哲学
誕生
→「Category:紀元前307年生」も参照
死去
→「Category:紀元前307年没」も参照
脚注
関連項目
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