第2飛行師団(だいにひこうしだん)は、日本陸軍の航空師団の一つ。関東軍飛行隊を嚆矢とし、1942年に第2飛行師団と改称した。
満州事変勃発以降の航空兵力増強のため、1931年(昭和6年)6月11日、関東軍飛行隊が平壌で編成された。その後、新京を本拠地とし1935年(昭和10年)12月2日に関東軍飛行集団、1937年(昭和12年)8月2日に第2飛行集団とそれぞれ改称された。そして、1942年(昭和17年)4月15日に第2飛行師団と改称し、満州での防空を担当した。
太平洋戦争後期に入りフィリピンの戦いに参戦のため、1944年(昭和19年)5月にフィリピンに転用され第4航空軍隷下となった。第4飛行師団から所属航空機の移管を受けてレイテ島の戦いに参戦。アメリカ軍艦船や飛行場への攻撃、船団護衛を担い、特攻機による攻撃なども行ったが、戦力が枯渇した。
1945年1月1日以降、第3航空軍の区処を受け、同年2月に第4航空軍の廃止に伴い第7飛行師団とともに第3航空軍の隷下となった。同年3月下旬、司令部と残存飛行部隊はミンダナオ島に移動。4月下旬、司令部はシンガポールに移り、5月17日に解散した。
歴代師団長
- 関東軍飛行隊長
- 長嶺亀助 大佐:1931年11月12日 -
- 大江亮一 中将:1932年6月6日 -
- 牧野正迪 少将:1932年10月3日 -
- 佐野光信 少将:1933年12月20日 -
- 小笠原数夫 少将:1935年8月1日 - 12月2日
- 関東軍飛行集団長
- 小笠原数夫 少将:1935年12月2日 -
- 安藤三郎 少将:1937年3月1日 - 8月2日
- 第2飛行集団長
- 安藤三郎 少将:1937年8月2日 -
- 儀峨徹二 中将:1938年11月28日 -
- 寺本熊市 中将:1940年8月1日 - 1942年4月15日
- 第2飛行師団長
- 寺本熊市 中将:1942年4月15日 -
- 河辺虎四郎 中将:1943年5月1日 -
- 下山琢磨 中将:1943年5月19日 -
- 山瀬昌雄 中将:1943年9月11日 -
- 木下勇 中将:1944年10月21日 -
- 寺田済一 中将:1944年11月27日 - 1945年5月23日
歴代参謀長
- 第2飛行集団参謀長
- 宝蔵寺久雄 航空兵大佐:1937年11月1日[1] - 1938年6月30日
- 楠木延一 航空兵大佐:1938年6月30日 - 1940年3月9日[2]
- 吉田喜八郎 航空兵大佐:1940年3月9日 - 1941年11月25日[3]
- 川上清志 大佐:1941年12月5日 - 1942年4月15日[4]
- 第2飛行師団参謀長
- 川上清志 大佐:1942年4月15日[4] - 1943年1月19日
- 川辺忠三郎 大佐:1943年1月19日 - 1943年12月11日[5]
- 内田厚生 中佐:1943年12月11日 - 1944年10月14日[6]
- 大賀時雄 大佐:1944年10月14日 - 1945年3月5日[7]
- (代理)小幡一喜 中佐:1945年3月5日 - 1945年5月24日[8]
司令部構成
- 1944年5月現在
- 参謀長:内田厚生大佐
- 参謀(作戦):野々垣四郎中佐
- 参謀(後方):鈴木清少佐
- 参謀(情報):伊藤禎三少佐
- 高級副官:上村三太夫中佐
- 兵器部長:原弘大佐
- 経理部長:小宮卓主計中佐
- 軍医部長:林真学軍医大佐
所属部隊
- 1944年5月現在
- 戦闘部隊
- 第6飛行団司令部:小野門之助大佐
- 飛行第32戦隊(軽爆):岡村正義少佐
- 飛行第66戦隊(軽爆):佐藤辰男少佐
- 飛行第70戦隊(戦闘):長縄勝己少佐
- 第13飛行団司令部:江山六夫中佐
- 飛行第65戦隊(襲撃):石原政雄中佐
- 第28独立飛行隊(司偵)(温春):国枝治平中佐
- 飛行場部隊
- 第6航空地区司令部
- 第13航空地区司令部:細野光武中佐
- 第26飛行場大隊
- 第37飛行場大隊
- 第86飛行場大隊
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『別冊歴史読本 戦記シリーズNo.32 太平洋戦争師団戦史』、新人物往来社、1996年。
- 木俣滋郎『陸軍航空隊全史』航空戦史シリーズ90、朝日ソノラマ、1987年。
- 防衛研修所戦史室『陸軍航空の軍備と運用(3)大東亜戦争終戦まで』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年。