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笠森稲荷門前の水茶屋で働いていた看板娘 ウィキペディアから
笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で鍵屋五兵衛の娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また加藤曳尾庵の随筆によれば、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の1人としてもてはやされた[1][2][3][4][5]。
1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働き、評判はよかった。
1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなった[2]。その美しさから江戸中の評判となり、大田南畝が『半日閑話』で、「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙美なりとて皆人見に行き」と記し、「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」と手毬唄に歌われ[4]、お仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られるほど一世を風靡し[2][5]、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた[2]。
1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した[1]。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した[1]。お仙が姿を消したのは幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地政之助の許に嫁いだためで、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという[1]。文政10年1月29日死去した[4][5]。享年77。
現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にあり、その墓石は1994年に中野区登録有形文化財に登録されている[6][7]。
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