竹原樸一
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竹原 樸一(たけはら ぼくいち、1852年6月1日(嘉永5年4月14日[1])- 1930年(昭和5年)6月19日[2][3][4][5])は、明治から昭和初期の政治家。衆議院議員、三重県南牟婁郡鵜殿村長。
経歴
紀伊国牟婁郡鵜殿村(三重県[2]南牟婁郡宇和野村、鵜殿村[1][5][6]を経て現紀宝町鵜殿)で、竹原季右衛門の二男として生まれ、1873年(明治6年)に家督を相続した[7]。大阪開成所で学んだ[2][3][4]。
鵜殿村会議員、南牟婁郡会議員、三重県会議員(1882年-1924年)を務め[1][2][3][4][5][6]、鵜殿村長には30余年在任した[4][5]。一貫して立憲政友会に所属して政治活動を行った[1][6]。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第9区から立憲政友会所属で出馬して、南為太郎との接戦を制して当選し[3][8]、衆議院議員に1期在任した[2][3][4]。この間、政友会協議員、同三重県支部長などを務めた[5]。
国政選挙歴
- 第2回衆議院議員総選挙(三重県第5区、1892年2月、自由党)落選[9]
- 第6回衆議院議員総選挙(三重県第5区、1898年8月、憲政党)落選[10]
- 第7回衆議院議員総選挙(三重県郡部、1902年8月、立憲政友会)落選[11]
- 第15回衆議院議員総選挙(三重県第9区、1924年5月、立憲政友会)当選[8]
脚注
参考文献
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