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稲庭城は、中世の秋田南部を支配した小野寺氏の居城である。 建長年間(1249年〜1256年)に 小野寺六郎経道が築城したとされるが、建久4年(1193年)、小野寺重道が築いたという説もある。[1]
雄物川の支流・皆瀬川右岸に位置する、標高704m大森山の西側尾根(標高約350m)に築かれている。
【主郭】東の最も高い場所に位置し、東西約30m×南北約80m。
【ニノ郭】主郭の西側に位置し、東西約20m×南北約80mで、南東隅に櫓台跡が残る。 また、北側に腰郭と大手口が存在し、西側に向けて蛇行した登城道となっている。 現在二ノ郭跡には模擬天守があり、中は資料館になっている。[2] また、ニノ郭背後に三重堀切が見られる。
経道には3人の子がおり、嫡子忠道には稲庭城で家督を継がせ、次子道直を西馬音内城に、三子道定を湯沢城に配置して磐石な体制を築いた。
忠道の子・道有の代には「雄勝・平鹿・仙北三郡の庄主」と称されるまで支配範囲が広がった。 勢力拡大に従い、支配の拠点を平野部の平鹿地方へ移す必要性が出てきたため、正安2年(1300年)、道有は平鹿郡の沼館城に重臣を配置して支配した。その後16世紀前半頃に小野寺氏12代稙道が居城を沼館城に移し、稲庭城は稙道の弟・晴道が城主となった。 さらにその後、小野寺氏は居城を横手城に移したが、稲庭城は小野寺氏の有力な城として存在し続けた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥羽仕置で小野寺氏はその領地を大きく削られ、文禄4年(1595年)には最上義光が小野寺領に侵攻。稲庭城も慶長3年(1598年)に落城、その後すぐに廃城となった。
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