秋田焼山
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直径約7kmの成層火山である。熊沢山、硫黄山とも言われている。
直径600mの外輪山があり、焼山の山頂は外輪山の南西の縁にある。デイサイトの溶岩円頂丘が、火口底の中央火口丘鬼ヶ城と火口南東縁にある。主山体東側に側火山栂森がある。また、中央火口丘である国見台から東に溶岩が流出している。山体南側には側火山黒石森がある。
山頂部には直径700mほどの山頂火口である湯沼がある。湯沼は白濁しており、盛んに水蒸気を噴出し、周囲には硫黄臭が立ち込めている。この沼の東部には溝が掘られている。これは湖底に沈殿した湯花を取るために、阿部藤助[1]が掘ったものである。このため、大正年間にはこの沼からは水がなくなり、湯花ばかりの湖底が見えていた。湯花を取った後は、また溝をせき止め湯花の沈殿を待つ計画であった。[2]
1952年頃には、荻原鉱業が湯沼まで索道を通し、湯沼や中ノ沢から硫黄を採掘していた。当時鉱山では約200人が働いていた。精鉱された硫黄は毎月800tほどで、索道とトラック運送で八幡平駅まで運ばれていた。また玉川鉱業は名残峠の西約1kmまで索道を通し、38人が毎月200tほどの硫黄を生産していた。
写真の山頂右下にあるのが、中央火山丘である溶岩ドームの鬼ヶ城である。その下に見える建物が、焼山避難小屋である。鬼ヶ城上方の外輪山のへりに、名残峠がある。名残峠周辺は歩きづらくなっているが、空沼や鬼ヶ城の奇岩を眺めることができる。焼山避難小屋から脇道を移動すると、水たまりがある小さな火口に到達する。これが空沼で1997年など、近年の噴火が多い火口である。鉱山があった時代には、湯沼と空沼には穴が掘られ、湯沼の水を空沼に排水するようになっていた。
焼山山頂付近は硫気変質が著しく、山頂火口や山麓に多くの温泉がある。東側には後生掛温泉、西側には玉川温泉があり、焼山登山への出発点・終着点となっている。後生掛温泉と玉川温泉の間にはバスが運行されており、縦走登山の際に利用をすることができる。火山性ガスによる登山者の事故が起きており、登山道以外の立ち入りは禁止されている。
奥州征伐に来た坂上田村麻呂は、蝦夷の大将である大猛丸を八幡平で討ち取った。しかし、登鬼盛という武将は難を逃れ、鬼ヶ城に立てこもり、決戦を迎えた。カルデラの中に突き出た溶岩ドームは、周囲を急斜面で囲われ、その頂きに立てばどんな方向から攻められても優位に立てる。しかし力及ばず、登鬼盛も討ち取られてしまったと言われている。史実では、坂上田村麻呂はこの地には到達していない。
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