590年(開皇10年)、隋により滏陽県に設置された礠州を前身とする。606年(大業2年)に礠州は廃止され、その管轄県は相州に移管された。607年(大業3年)、相州は魏郡と改称された[1]。
618年(武徳元年)、唐により隋の魏郡滏陽県の地に磁州が置かれた。磁州は滏陽・臨水・成安の3県を管轄した。621年(武徳4年)、洺州の臨洺・邯鄲・武安・肥郷の4県が分割されて、磁州に編入された。623年(武徳6年)、磁州総管府が置かれ、磁州・邢州・洺州・黎州・相州・衛州の6州を管轄した。同年のうちに磁州総管府は廃止され、臨洺・武安・肥郷の3県は洺州に移管された。627年(貞観元年)、磁州は廃止され、滏陽・成安の2県は相州に、邯鄲県は洺州に移管された。765年(永泰元年)、昭義節度使薛嵩の請願により、滏陽県に再び磁州が置かれ、臨水県は昭義県と改称された。磁州は河北道に属し、滏陽・邯鄲・武安・昭義の4県を管轄した[2]。
北宋のとき、磁州は河北西路に属し、滏陽・邯鄲・武安の3県を管轄した[3]。
金のとき、磁州は河北西路に属し、滏陽・武安・邯鄲の3県と台城・観城・昭徳・臨水・固・大趙・北陽・邑城の8鎮を管轄した[4]。
元のとき、磁州は広平路に属し、滏陽・武安・邯鄲・成安の4県を管轄した[5]。後に磁州は廃止された。
1368年(洪武元年)、明により磁州が再び置かれ、広平府に属した。1369年(洪武2年)、磁州は彰徳府に転属した。磁州は武安・渉の2県を管轄した[6]。
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