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1768-1846, 江戸時代後期の長崎派の絵師 ウィキペディアから
石崎 融思(いしざき ゆうし、明和5年(1768年) - 弘化3年2月28日(1846年3月25日))は江戸時代後期の長崎派の絵師。唐絵目利として漢画・洋風画を折衷させた写実的洋風画を確立。
唐絵目利の荒木元融の子として生まれる[1]。父から漢画・洋風画を学び、ガラス絵の絵付け法も習得。父元融の師である石崎元徳からも洋風画を学ぶ。
父の師・石崎家では初代元徳が明和7年(1770年)に没し、安永7年(1778年)には二代元章が世継ぎのないまま48歳で没する。元融の実子元甫を養子としたが、この三代元甫までもが夭折してしまう。元融の意向で融思は石崎家の養子となり、21歳にして石崎家四代の家督を継いだ。一方、荒木家は養子の荒木如元が継ぐがなんらかの理由で家を離れる。
融思は長崎漢画や南蘋派の画法に、オランダから伝わった遠近法・陰影法をうまく取り入れ、独自の写実的画風を生み出すことに成功。画才に長け長崎画壇の中心的な存在となった。文化文政期には門人が270余名になったという。木下逸雲・鉄翁祖門・三浦梧門らも入門している。
漢詩は吉村迂斎、篆刻を清水伯民に学ぶ。寛政11年(1799年)から一年間にわたり大坂・伊勢などを遊歴。木村蒹葭堂や本居宣長と交友する。
14歳で唐絵目利見習いとなり、20代頃にで唐絵目利本役に昇進(時期不明)。32歳のときに唐方俗式絵図認掛に任ぜられ「清俗紀聞」を制作。55歳のときオランダ船に船載されてきた象を写生し、『全象活眼』を刊行。天保3年(1832年)、64歳のとき松森神社の職人尽絵を彩色し修繕に尽くした。翌年に52年間勤めた職を致仕するが、その功労が認められ死没する79歳まで毎年銀300目が送られた。融思の人生は順風満帆に見えるが、29歳のとき若妻を失い37歳のとき子の融済が夭折。55歳のとき愛娘エイを亡くしている。
弘化3年(1846年)没。孫の融吉が後継となった。
隠居後も名勝図などを盛んに画いており、川原慶賀の「慶賀写真草」(天保7年・1836年)に序を寄せていることから、町絵師との交流があったことがわかる。交友のあった田能村竹田は『竹田荘師友画録』で「西洋画を善くする」と融思を記している。
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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大田南畝像 | 絹本著色 | 1幅 | 858.8x35.1 | 個人 | 1805年(文化2年) | 款記「石崎思敬寫」/「融思字士斎」白文方印・「鳳嶺」朱文方印 | 長崎滞在中の南畝の誕生日に、南畝と交流をもった融思が描いた作品[2][3]。 |
真象写照之図 | 1813年(文化10年) | ||||||
ブロンホフ家族図 | 神戸市立博物館 | 1817年(文化14年) | |||||
長崎港図 | 神戸市立博物館 | 1820年(文政3年) | |||||
蘭船図 | 神戸市立博物館 | 1822年(文政5年) | |||||
デ・フィレニューフェ夫妻図 | 長崎歴史文化博物館 | 1830年(天保元年) | |||||
唐蘭両舟入貢図 | |||||||
春徳寺真景図 | 長崎歴史文化博物館 | ||||||
長崎古今集覧附録名勝図絵 | 上中下の3冊 | 長崎歴史文化博物館 | 1842年(天保12年)序 | 稿本 | |||
長崎名勝図絵 | |||||||
崎陽十二景 | 折本 | ||||||
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