矢野光儀
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矢野 光儀(やの みつよし、1822年(文政5年[1][2]) - 1880年(明治13年)9月13日[1][3])は、幕末の佐伯藩士。明治時代の官吏。葛飾県知事、深津県権令、小田県令。位階は正六位。幼名は哲也、程蔵[1]。矢野龍渓の父。
豊後佐伯藩士[1][2]。矢野多門の子[1]。幼少期、江戸屋敷で塩谷宕陰に書を、長沼笑兵衛に剣を学び、父の厳しい教育を受けた[1]。のち佐久間儀右衛門の女駒子を妻とした[1]。
のち側役小納戸、浦奉行や御郡代兼町奉行を務めた[1]。維新後は葛飾県大参事、1870年(明治3年)同県知事となり、治水に尽くした[1]。1871年(明治4年)深津県権令、のち小田県令に任じ、1874年(明治7年)官を辞して東京に移り園芸に親しんだ[1]。地方民会公選に賛同し、8年解任された[2]。
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