Loading AI tools
江戸時代前期から中期の大名。相馬氏21代。陸奥相馬中村藩5代藩主。相馬忠胤の次男。従五位下、弾正少弼。江戸幕府 御側御用人 ウィキペディアから
相馬 昌胤(そうま まさたね)は、江戸時代前期から中期の大名。相馬氏第21代当主。陸奥相馬中村藩第5代藩主。第3代藩主・相馬忠胤の次男。
延宝7年(1679年)12月18日、兄・貞胤が男子を残さず死去したため、末期養子として家督を相続した。同年12月26日、将軍徳川家綱に御目見する。同年12月28日、従五位下弾正少弼に叙任する。
元禄2年(1689年)3月2日、将軍徳川綱吉に召し出されて、奥詰になった。同年6月4日、側衆に転じる。同年8月21日、側衆を辞職する。元禄14年(1701年)2月11日に隠居し、婿養子の叙胤(佐竹義処の次男)に家督を譲った。その後、領内の幾世橋村に屋敷を新築し、隠居生活を送る。享保13年(1728年)10月6日、幾世橋村にて68歳で死去。幾世橋の興仁寺に葬られた。
『土芥寇讎記』で当時の領内について「藩士は豊かではなく、風俗も宜しくない。だが義を守る」と評価され、昌胤の政治についても「家民心易」とされている。昌胤個人の評価としては「(学は無いように見えるが)実はある」と強調されている。
父母
正室
子女
養子
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.