白井 鐵造(しらい てつぞう、1900年4月6日 - 1983年12月22日)は、宝塚歌劇団演出家。宝塚歌劇団元理事長[1]

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白井鐵造(1955年)

レヴューの王様と謳われ[2]、宝塚レビューを形成した第一人者である。

来歴

静岡県周智郡犬居村犬居(現:浜松市天竜区春野町[2])生まれ。本名は白井虎太郎(しらい とらたろう)。

犬居尋常小学校を卒業後、浜松日本形染株式会社に入社したが、1917年に退社し、ダンサーを目指し上京。1919年小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー・男子専科生第二期生として宝塚入り(この頃に鐵造と改名)したものの半年ほどで解散の事態に遭う。後に宝塚の先輩演出家にあたる岸田辰彌と出会い、1921年、演出家として宝塚歌劇団に入団。翌年、月組公演『金の羽』にてデビューを果たす。

1926年、宝塚のスターであった沖津浪子と結婚。1927年、日本初のレビュー『モン・パリ』の振付を担当。

1928年、宝塚歌劇団創始者小林の命によりレビューの本場パリへ渡欧。本場のレビューに圧倒された白井は約2年間の修業を積み、1930年、帰国後第1作に『パリゼット』を発表。全20場・上演時間1時間半の大作であり、ダチョウの羽を使った羽根扇、タップダンス、それまでは白塗りだった舞台メイクがドーランになり、足を高く挙げる振付のラインダンス[注釈 1]などが日本初登場した。また、この作品の主題歌で白井が作詞を担当した「すみれの花咲く頃」「おお宝塚」などの現在まで歌い継がれている愛唱歌も誕生した。

その後再度渡欧し、『ローズ・パリ』『サルタンバンク』『ブーケ・ダムール』『ラ・ロマンス』『花詩集』などの大ヒット作品を次々に発表。また、宝塚初の一本立て作品『虞美人』や、『源氏物語』などの著名な作品も残している。1941年には秦豊吉と東宝国民劇を創始した[3]

長年の歌劇への功績を讃え、1964年には紫綬褒章を、1970年には勲四等旭日小綬章を受章。1982年には浜松市名誉市民に選出された[4]2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰されている[5][6]

1983年12月22日、宝塚歌劇団の創立70周年を見ることなく貧血症により死去。83歳没1979年に発表した『ラ・ベルたからづか』に至るまで約60年間、およそ200の作品をつくり続けた。

浜松市に白井鐵造記念館がある。なお墓所は、父親の出身地でもあった愛知県豊橋市大岩寺に在る[7]

直弟子に横澤英雄がいる。

主な作品

著書

  • 白井鉄造『宝塚と私』中林出版、1967年5月。

脚注

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