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田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日[1][2] - 1948年(昭和23年)10月6日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町[3])出身[1][2][4]。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる[1]。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業[1][2][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][5]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業[1][2][4]。
1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した[1][2][4]。第11師団参謀長を経て、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進み第20師団司令部付となる[1][2][4]。
その後、歩兵第40旅団長、歩兵第45旅団長を経て、1941年(昭和16年)12月、独立混成第17旅団長に発令され太平洋戦争に出征した[1][2][4]。1942年(昭和17年)9月、陸軍公主嶺学校幹事兼教導団長に転じ、1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に昇進[1][2][4]。同年10月、第36師団長に親補され、ニューギニアの戦いを遂行して終戦を迎えた[1][2][4]。その後、戦犯容疑で逮捕され、1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受け[6]、同年10月にホーランジアで処刑された[1][2][4]。
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