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新末後漢初の群雄の一人で隴右[1]に勢力を張った隗囂の部下。勇敢にして力量と才気を有し、牛邯自身も、かつては辺境に割拠したこともあった。
建武6年(30年)、漢の来歙が使者として隗囂を訪れ、蜀(成家)の公孫述討伐を要請したが、隗囂はこれを拒否した。隗囂は、この際に来歙が自分を刺そうとしたことから激怒し、牛邯に命じて来歙を包囲させようとしたが、腹心の王遵の諫言により牛邯の派兵は取りやめている。
建武8年(32年)春、隗囂と光武帝の戦いが本格的に始まり、来歙が略陽(天水郡)を急襲してこれを陥落させる。牛邯は隗囂の命で瓦亭(安定郡烏枝県)を守備して他の漢軍の進攻に備え、隗囂は自ら略陽を包囲攻撃した。しかし、同年秋になっても隗囂は略陽を奪還できず、光武帝の親征を受けて敗走した。
同年、かつての同僚にして旧友の王遵が、牛邯に手紙を送って漢への投降を促した。牛邯は手紙を受け取ってから10数日思案したが、遂に漢への投降を決心し、部下に謝してから洛陽に至った。光武帝は牛邯を太中大夫に取り立てた。この牛邯の投降をきっかけに、隗囂に所属していた13人の大将、16県、10数万の兵士が続々と漢に降り、隗囂軍は大幅にその勢力を削り取られてしまった。
建武9年(33年)、関都尉が廃止され、護羌校尉が復活した。この時、大司徒司直杜林と太中大夫馬援が、牛邯を護羌校尉に推薦し、光武帝もこれを容れ、符節を与えて任命した。牛邯は令居(隴西郡)に駐屯し、来歙と共に、隗囂の遺児の隗純の軍を平定している。なお、護羌校尉の地位は、牛邯没後には一旦廃止されたという。
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