源雅具
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源 雅具(みなもと の まさとも)は、鎌倉時代前期の公卿。村上源氏雅兼流、権中納言・源兼忠の子。官位は正二位・権中納言。大納言・源通具の子となる[2]。
白河院、鳥羽院からの信頼が厚かった源雅兼の子孫である。雅兼、雅頼、兼忠、といずれも権中納言に至った。雅具も最終的には権中納言に至り家門を維持できたのであるが、父祖たちとは異なり、前半生はかなり不遇であった。
承元3年(1209年)1月13日、侍従に任ぜられる[3]。この時、従五位上。建暦2年(1212年)11月11日、承明門院の御給により、正五位下に昇叙。承久2年(1220年)1月22日、左少将に任ぜられる。承久3年(1221年)1月13日、出雲介を兼ねる。同日、従四位下に昇叙。
同年閏10月、承久の乱により土佐国に配流となった土御門院に同行する[4]。その後の動向は定かでないが、寛喜3年(1231年)の土御門院崩御後、文暦2年/嘉禎元年(1235年)頃には中原師員の婿となり、勢いを得ていたという[5]。
嘉禎3年(1237年)1月24日、従四位上に昇叙。暦仁2年(1239年)1月24日、治部卿に任ぜられる。仁治元年(1241年)11月12日、嘉陽門院の御給により正四位下に昇叙。仁治3年(1242年)6月16日、復任。寛元3年(1245年)6月26日、62歳にして蔵人頭に補せられる。治部卿が蔵人頭に補せられることは極めて珍しかった。同年10月29日、従三位に叙せられる。治部卿は元の如し。寛元4年(1246年)2月23日、加賀権守を兼ねる。宝治2年(1248年)11月2日、治部卿から大蔵卿に遷る。
建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。建長3年(1251年)1月22日、遠江権守を兼ねる。建長4年(1252年)12月4日、権中納言に任ぜられる。建長5年(1253年)4月8日、従二位に昇叙。建長6年(1254年)1月13日、権中納言を辞し、代わりに息男右少将雅言を右少弁に挙任する。正嘉元年(1257年)閏3月27日、正二位に昇叙。同年8月21日、出家。法名は蓮円。
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