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父・季兼は藤原忠通の、子・長俊は九条兼実の近臣として知られ、子孫は九条家の諸大夫・信濃小路家として続くが、季広自身の官位は振わず、歌人としての活動が知られる。
久安5年(1149年)に六位蔵人(『本朝世紀』)、仁平元年(1151年)に左衛門尉に任ぜられて(『台記』)、同年9月4日に叙爵される(『本朝世紀』)。久寿年間に季広と改名。保元元年(1156年)に松殿基房が元服するとその職事となり、侍所を管轄した。後に基房の子・家房の乳父となっている。保元2年(1157年)に飛騨守となる。基房失脚後の養和元年(1181年)に九条兼実の家司に召されて、文治元年(1185年)に下野守に任じられて一時任国に下向しており、その際に藤原頼輔と和歌のやりとりをしている(『続千載和歌集』)。だが、この時期にはもっぱら、嫡男・長俊の活動が目立つようになる。『明月記』正治元年9月8日条に「人云、季弘死去了、未聞其仔細」と記されている“季弘”が藤原定家と同じ兼実の家司であった季広のことであった可能性がある。
『千載和歌集』を始めとする勅撰和歌集に12首採録され、『続詞花和歌集』・『月詣集』・『今撰集』・『楢葉和歌集』といった私撰集にも多くの和歌が採録され、当時の歌合でも度々参加が記録されている。
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