湯之谷温泉郷
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湯之谷温泉郷(ゆのたにおんせんきょう)は、新潟県魚沼市(旧湯之谷村)にある温泉の総称(温泉郷)。小出地区から奥只見に向かう谷沿いに、薬師、葎沢、芋川、折立、大湯、栃尾又、駒の湯の各温泉が並んでいる。越後駒ヶ岳(標高2003m)の北隣にあり、晴れた日には駒ヶ岳の勇姿が間近に見える。
湯之谷温泉と名前がつく温泉は愛媛県西条市、鹿児島県霧島市・霧島温泉郷にもある。
大湯温泉と同じく行基による開湯伝説がある[5]。
戦国時代には直江兼続をはじめ多くの武将に利用されたとされた。
現在の魚沼市の一部であった小出島組は、慶長三年上杉景勝が会津へ移封されてから堀直奇の所領となった。直奇の父である直政が、四日町(小出町)の諏訪神社に領地三石を寄進した。しかし、慶長五年に起きた一揆で文書を失ったので、諏訪神社が再度寄進してくれるよう堀に願い出た。このことに対して、堀直政の家臣岩倉伝右衛門が諏訪神社の神主に差し出した慶長六年(1601)の寄進状がある。その中に、「直政様御湯治之砌、御墨付被遺候」との記述 [6]があることから、小出島組を流れる佐梨川の上流にある大湯温泉に湯治したことが記され、すでに開湯していたことがわかる。
寛永年間から安政年間の約200年にわたる上田銀山の銀の採掘の際には、三国街道の小出から銀山に至る道中の宿場としても栄えた[3][4]。
戦後、奥只見ダムの建設が始まると建設関係者の宿泊、接待や宴会などで賑わい、大湯温泉スキー場が開業、バスツアーも組まれるようになった[7]。バブル期にかけては温泉街の歓楽的要素も強まっていった[8]。
正保越後国絵図の控え(1645)[9]では、出湯と記されている。
貞享三年(1686)に「大湯・栃尾俣出湯湯守銭受取書[10]」で入浴料を徴収していたことが記されている。
「栃尾俣入湯ニ付入用并諸事覚書 」には、1855年(安政2年)に長岡藩の庄屋の家の者が湯治に訪れたときの記録が残る[11]。
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