Loading AI tools
ウィキペディアから
富山県富山市に生まれる。士族の家柄で、祖父は富山藩砲術指南である。しかし家は維新後に没落。父は小学校の校長を勤めたが、精神病を患い順三が12歳のときに亡くなった。姉夫婦の援助で富山中学校に進学するが、他人の世話になることを好まない母の方針により三ヶ月で中退し、母とともに上京して、神田の家具店に住み込みで働き始めた。母は東京控訴院検事長河村善益の家の住み込み女中となった。
1910年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、その後遺症で左耳の聴覚を失う。1913年頃から「時事新報」の窪田空穂選歌欄へ投稿を始め、「国民文学」創刊にも参加し、空穂に師事する。また、河上肇『貧乏物語』や、石川啄木の歌集に影響を受ける。第一歌集『貧乏の歌』は啄木の模倣に満ちていた。雑誌『種蒔く人』にも短歌を投稿し、掲載されるようになる。1923年、家具店をやめ、独立して印刷所を経営する。西村陽吉と親しくなり、「芸術と自由」の編集委員として参加、生活派歌人として頭角を現す。
1920年代の終わり頃、短歌界にもプロレタリア文学の動きが波及していく。1928年、坪野哲久、浅野順一、伊澤信平、坪野哲久、大塚金之助、浦野敬らとともに無産者歌人連盟の結成に参加し、雑誌『短歌戦線』の中心的な働き手となる。たびたび発禁処分を受けながらも歌壇に影響を及ぼしていた『短歌戦線』であったが、短歌の伝統性を否定するあまりにスローガン的な短歌が多くなっていき、やがて「短歌の詩への解消」を主張する流れが大勢を占めるようになり、無産者歌人連盟の解散に至る。順三はそれに反対して、勤労大衆の生活実感をうたう新しい短歌の創造を提唱し、1933年、坪野哲久とともに雑誌『短歌評論』を発行した。しかし、戦時中には弾圧を受け、1941年12月9日、太平洋戦争開戦翌朝に治安維持法違反で検挙され、執行猶予判決を受ける。
戦後、1946年に新日本歌人協会の創立へ参画し、民主主義文学運動の一翼として活動した。戦時下においても時代迎合的な作品を一切作っていなかったことが戦後の評価を高めたが、時代を忠実にフォローするために公式的発想の作品が目立つとも指摘される[1]。松川事件や内灘事件、砂川事件、安保闘争などの国民運動を題材とした作品を残した。1964年には大著『定本近代短歌史』を著し、民衆の立場からの近代短歌の系譜をまとめた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.