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戦国時代の武将。毛利氏の家臣。 ウィキペディアから
大永4年(1524年)、父・渡辺勝が毛利元就の弟・相合元綱を擁立し元就に反乱を起こそうとして粛清されると、通は乳母と共に備後国国人・山内直通の下に逃亡した。通は山内直通のもとで元服し、「通」の偏諱を与えられた。元就は、天文3年(1534年)から天文4年(1535年)にかけ山内氏と懇親を深めており、これを好機と捉えた山内直通は、通の毛利氏復帰と渡辺氏再興を元就に要請した。元就は、山内氏懐柔のために渋々ながら渡辺氏再興を受け入れ、通は毛利氏へ復帰することを許された。
天文9年(1540年)からの吉田郡山城の戦いにおいては、元就の作戦どおりに別働隊を率いて伏兵となり、数倍の兵力を擁する尼子誠久を奇襲により撃破している。
天文11年(1542年)、大内義隆による第一次月山富田城の戦いでは毛利家臣として従軍。翌天文12年(1543年)、大内軍は月山富田城を攻めるが難航。さらに糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しんだうえ、尼子方から大内方に鞍替えして参陣した三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返り、大内軍は撤退を開始。殿軍を命じられた毛利軍が領国の安芸国へ撤退する途中、石見国の大江坂七曲りで尼子軍に追い詰められる。渡辺通・内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら七名が元就の身代わりとなり囮役を引き受け、奮戦の末に討死した。彼らが戦死した場所が、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂といわれる[1]。また、通の同族である渡辺平蔵もこの時に討死している[2]。
無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感銘を受け、渡辺の家を決して見捨てないと誓い、通の子・長を股肱の臣として重用した。その姿勢は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、長州藩における正月の甲冑開きの儀式は、渡辺家の者が代々先頭の栄誉に与かることとなった。また、寛保2年(1742年)5月7日には萩の常念寺に通の功績を刻んだ功徳碑が建立されている。
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