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李氏朝鮮第19代国王粛宗の後宮、第21代国王英祖の生母 ウィキペディアから
淑嬪 崔氏(しゅくひん さいし、スクピン チェシ、1670年 - 1718年)は、李氏朝鮮の第19代国王粛宗の嬪。 第21代国王英祖の生母。諡は「和敬」(和敬淑嬪)。
本貫は海州。後日、領議政を追贈された崔孝元の娘として、1670年に生まれた。粛宗2年に7歳で入宮したとされている。宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、実際には針房(チムバン、침방)に所属していた宮女である(後に対立する禧嬪張氏も元は針房の女官であった。針房の女官は王族に仕える至密の女官に次いで高位であった)。後に仁顕王后付きの内人(尚宮でない女官の総称)となる。
1689年、仁顕王后閔氏が廃位され禧嬪張氏が王妃となった。
その後(1692年4月22日以降。正確な時期はわかっていない)、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン、승은상궁。正五品相当)になり、粛宗19年(1693年)4月26日に淑媛(スグォン、숙원。従四品相当)になる。その年、王子を産むが、2ヶ月で亡くなる。
甲戌換局で仁顕王后が復位された年(1694年)の9月13日、延礽君(ヨニングン、연잉군)、後の朝鮮の21代国王の英祖を産んだ。それに先立ち、同じ年の6月2日に淑儀(スグィ、숙의。従二品相当)になっている。
粛宗21年(1695年)6月8日に貴人(クィイン、귀인。従一品相当)になる。
粛宗24年(1698年)7月7日に子を産むが3日で亡くなる。
粛宗25年(1699年)6月13日、前年に第6代朝鮮王端宗が241年ぶりに復位されたことを祝賀して、正一品相当の淑嬪(スクピン、숙빈)となる。
1701年10月から1704年4月の間に本宮の昌徳宮(チャンドックン、창덕궁)を離れて、梨峴宮(イヒョングン、이현궁)に居所を移す。梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン、숙빈방)と呼ばれるようになる。
粛宗37年(1711年)6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子・延礽君の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す。
1716年ごろから急に病がちになり、私邸で療養していたが、 1718年3月息子・延礽君の私邸で亡くなる。享年49。
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