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『涼州詞』(りょうしゅうし)は、唐代に詠まれた辺塞詩の一種。『涼州歌』という俗曲に合わせて作られた王翰の作品と王之渙の作品(ともに七言絶句)が双璧として知られる[1]。
大陸の北と西から異民族の侵入を繰り返し経験してきた中国では辺境での戦争を主題にした詩が古代から作られ[2]、例えば漢代の『隴頭歌』などの楽府が知られる[3]。そして詩の技術が磨かれた六朝の時代になると、戦場の殺伐とした情景や辺地の荒涼とした風土といった非日常性が浪漫あふれる詩のテーマとして改めて着目されるようになり[2]、従軍経験のない貴族の詩人たちが『従軍行』『出塞』と題した作品を相次いで発表した[4]。唐代には領土拡張政策により[5]突厥や回紇との激しい争いが西域で続き[4]、出征する兵士や銃後の家族が増えたことで、西域の情勢や文物に対する世間の関心が高まった[6]。そして従軍経験のある詩人が増えたことで詩想の深みはさらに増し[4]、西域に赴いた出征兵士の闘志・哀歓・郷思を[3][7]荒涼とした砂漠が広がる辺塞の風景・風物に重ねて詠う[3]「辺塞詩」という新ジャンルが唐詩において確立していった[8]。
721年(開元9年)[9]、涼州一帯を治めていた西涼府都督(河西節度使)の郭知運は[10]その地域で行なわれていた『涼州歌』という俗曲を採録し玄宗に献上した[11][9][† 1]。前漢の武帝時代に匈奴を駆逐して設けた河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)から始まる涼州は[13]現在の甘粛省武威県(ゴビ砂漠の南に連なるあたり)に位置し[11]、唐代において長安から西北1,000キロメートルにあって西域統治の政治的・軍事的要地であるとともに[13]、文学においては当時流行のエキゾチシズムを演出する格好の舞台となり得るものだった[10]。王翰や王之渙をはじめ多くの詩人が[14]早速その新曲の旋律に合わせて歌詞を作り、『涼州詞』(涼州のうた)[10]という楽府題を付けた[15]。従って王翰の『涼州詞』と王之渙の『涼州詞』は互いに同じメロディを共有する、替え歌のような関係にある[16]。
平声の「杯」「催」「囘」で押韻する[17]。
西域の戦地における兵士らの異国情緒あふれる酒宴の情景を通し、明日の命も知れぬ運命の中で刹那的な歓楽に身を任せながらも、死への恐れを断ち切り難い兵士の憂悶を描いている[18]。全編に西域を連想させる詩語をちりばめ、強烈なエキゾチシズムが漂う[19]。
起句
承句
転句
結句
起句では「葡萄美酒」「夜光杯」と西域情緒に直結するアイテムを並べて酒宴のエキゾチックさを演出し[22]、承句でやはり西域の「琵琶」が馬上でかき鳴らされる状況を示して、その酒宴が安穏とした座敷でなく野外の慌ただしさの中にあることを明らかにする[29][30]。このように視覚と聴覚に訴えながら[12]前半で華やかかつ荒々しい異様な雰囲気を描写した上で[30]、転句でそれが「沙場」すなわち戦地におけるものと明かし[23]、兵士の無様な酔態を示しつつ[27]、それを受けた結句で「戦地から帰還できたのが何人いたか」と読者を粛然とさせるような述懐を述べて終わる[18]。このように前半の煌びやかさと後半の沈痛さのコントラストがこの作品の見所となっている[28][31][19]。
制作年代は不明[31]。
塞外へ行った経験が官僚詩人の王翰にあったか否かはその伝記に記載がなく不明である[26]。行った経験がないとすれば、中央に伝わってくる西域の情報や想像力に基づいた架空のイメージがこの作品に反映されていると考えられる[32]。
上掲の詩は二首連作のうちの一つ目であり[21]、二首目は以下の通り。
王翰の『涼州詞』を唐の七言絶句の絶唱として挙げる明・清の文人は多い[34]。明代の詩人である李攀龍と文学評論に長けた王世貞は唐代の七言絶句で最も優れた作品は何かを議論し、李攀龍は王昌齢の『秦時明月漢時関』を、王世貞は王翰の『涼州詞』を推した[21]。王世貞は「葡萄の美酒の一絶は便(すなわ)ち是れ瑕(きず)無き璧(たま)なり」(無瑕之璧)と絶賛した[28]。同じく明代の詩人である譚元春(たんげんしゅん)は「また壮にしてまた悲し」と評した[26]。清代の沈徳潜は「故(ことさら)に豪飲の詞を作す、然れども悲感すでに極まれり」と評した[35]。
王翰の『涼州詞』は初唐期にあって既に辺塞詩の基本形を示したものであり[32][5]、この型を大きく超えるものはこれ以降は少ない[5]。
王翰の詩名が生前から高かったことは杜甫の詩やその他の逸話からうかがえるが[36]、10巻あった詩集のうち今は14首しか残っておらず[11]、王翰の名が現在も伝わるのは事実上この『涼州詞』の一首があってこそである[37]。
平声の「間」「山」「關」で押韻する[40]。
西域のとある辺塞を取り巻く壮大かつ荒涼とした情景を詠みつつ[41]、中央から遠く離れて出征し故郷を想う兵士の諦観したような哀切をうたっている[42][43]。
起句
承句
転句
結句
まず前半は、起句で「黄」「白」という色の対比、承句で「一」「萬」という数の対比を置いて弾みを付けつつ[41]、辺境の雄大な情景を[57]次々とパノラマ的に提示する[42]。転句では視覚的な叙景から聴覚的な抒情へと大きく転換し[58][49]、故郷の春景色を思い出させる『折楊柳』を聞かされた兵士の[46]「いや、もはや悲しくすらならない」という屈折した強がりを示し[59][60]、結句で「春が来ず柳も芽吹かないこんな辺地で『折楊柳』など場違いなのさ」という皮肉で結ぶ[58]。理屈で感情を抑え込もうとする描写によって煩悶の深さを際立たせる技巧がある[46]。こうして兵士の辛苦の情を痛切に述べながら、最後まで一語も兵士に関する言及が無い点には着目してよい[43]。
王之渙は722年、35歳時には既に門蔭入仕[† 3]を経て冀州衡水県の主簿となっていたが、ほどなく誣告されて辞任し、その後は15年に亘って絳州で閑居しつつ、東北は薊庭(現在の北京市付近)から西北は玉門関付近まで漫遊した[61]。従って『涼州詞』は実際に玉門関を訪れた体験を踏まえて詠まれたと見てよいだろう[48]。作成時期は遅くとも736年かそれ以前である[62]。
当時の詩壇に名を馳せていた王之渙は[43]、その詩情の雅暢さから新作が出るごとに楽工らが曲を付けて演奏できるようにしたというが(いわゆる詞先)[43]、この作品は逆に曲(涼州歌)に合わせて詩を詠んだもの(いわゆる曲先)である[43]。ただし『楽府詩集』巻22では、漢代に軍中の馬上で演奏された横吹曲(おうすいきょく)の『出塞』[† 4]を模倣した擬古楽府詩(替え歌)として収録されている[63]。盛唐の靳能(きんのう)が記した『王之渙墓誌』には「嘗て或いは従軍を歌い、出塞を吟じ…」というくだりがあり、それぞれ伝統的な楽府題の『従軍行』および『出塞』と解釈するならば、後者を『涼州詞』と関連付ける余地はある[64]。
この詩は王之渙の存命中から既に長安を中心に広く流布した作品であり[52]、詩句の異同が多いことはそれだけ多くの人に愛唱された証左ともいえる[65][40]。唐詩中の絶唱と古くから評され[51]、清代の王士禎は数ある唐詩の中の圧巻として王維の『渭城朝雨』(送元二使安西)、李白の『早発白帝城』、王昌齢の『奉箒平明』(長信秋詞)と共に王之渙のこの『黄河遠上』(涼州詞)を挙げた[51]。
王之渙の友人である高適は、この『涼州詞』に唱和して『和王七玉門関聴吹笛』(王七(之渙)の『玉門関にて笛を吹くを聴く』に和す)という詩を詠み、こちらも笛の音を動因(モチーフ)にしている[66]。
王之渙の『涼州詞』は「旗亭画壁」(きていがへき)[† 5]と題される故事でもよく知られる[67]。王之渙の死後半世紀も経たないうちに薛用弱(せつようじゃく)が著した『集異記』にその記載が見え[67]、内容は大まかに次の通り。
この逸話は王之渙の『涼州詞』の世評が高かったゆえの作り話[46]と長らく考えられてきたが[71]、近年では考証が重ねられ、736年前後にほぼこの通りの出来事があったようだとされている[71]。この逸話は、唐詩の市井におけるリアルタイムの受容状況(歌唱に絶句が好まれたことなど)を伝えている点でも興味深い[44][69]。
『涼州詞』は王翰や王之渙の他に張子容の作品がよく知られる[26]。
張籍の作品(三首連作の第三)は次の通り。
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